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ネットは海なり危険なり

報告書作成のため、久しぶりにPCに触った。やはりPCは(というよりIT機器全般は)明確な目的を持つ者には大いに有用な道具であってくれるが、そうでない者には、ひたすら消費的利用を強いる。特にインターネット ブラウザは決して思考するための道具ではない。玉石混淆の情報を圧倒的な勢いで押しつけてくるものだ。ネットの海とは言い得て妙で、海での遊び方を最低限知っていれば表層を広くサーフィンすることもできるし、宝探しに深層へ潜って行くこともできる。浜辺でわいわい楽しくよろしくするのもよし。人気の少ない磯のあたりで海の様子や人間模様を観察するのもまた一興である。

 

そして重要なことには、もちろん、初心を忘れてなめてかかると、たちまち沖へとさらわれ、帰還するのが困難になりがちだということ*1。何をしに海へ行くのか、目的意識を明確にもち、そのための計画を整えてから電源をつけ、計画を遂行するか、能率の低下を感じ取ったら電源を切る。ぼくは特に"泳ぎ"が下手なのだということをもっと自覚しなくては!!

 

なにやら訓戒じみたやかましいエントリになってしまった。こんないつも以上に「誰得」な文章は本意ではないが、ここまで書いてしまった以上塩漬けにするのも癪なので、公開してしまう。

 

こういうところでブレーキのきかへんあほでんねん。

 

*1:社会的な手枷足枷のすくない大学生は特に!

学校へ寄るついでに本を買い込んだ

学校のパソコンを使うと年間で200枚まで印刷できるのだが、ぼくは友人にその印刷枚数を譲渡するために片道1時間かけて登校した。

 

着いたのは昼頃で、外は晴れとも曇りともつかず、時折細雪がちらついていた。季節のことはよくわからないが、この間際立って暖かい日(後に春一番と称することを知った)があったことは覚えていたので、今日もそうに違いないと思い込んでいただけに、やや残念な心持ちになった。

 

友人は印刷を終えたあとすぐゼミがあると言って、立ち去ってしまった。友人のためなら寒空の下馳せ参ずるに吝かではないとはいえ、たった10分で、しかも手ぶらで帰るのはあまりにもったいなく感ぜられたので、附設の書店で新たに小説や新書を買い込むことにした。

 

今回は思い切って三島由紀夫太宰治といった、「危なっかしい」と修飾したくなる小説家の作品に手を出した。これらについても読んだら読んだとだけここに報告する心算でいるが、もしかすると、妙に感化せられて素人の熱弁を振るい、後に悔やむこととなるかもしれない*1。他に、以前幾度か触れた「分人主義」の本や、認知症との付き合い方の本など、興味の赴くままに手を伸ばした。

 

暗算はまったく得意ではないが、3000円くらいであろうとあたりをつけて、チェックアウトしに行った。

 

パソコンをやめてから3週間ほどになるだろうか。実のところ、仕事以外の用途、すなわちブログの細かい記事編集のために立ち上げたことが1度あったものの、それでも毎日あの画面に被曝していた頃を思うと、憑き物が落ちたようにパソコンと冷静に向き合えるようになった。少なくとも、12時間もの間、目的を欠いたまま脳を電光に浸し続けていた日々に戻りたいとは思えない。十分な睡眠時間を取り戻し、ずっとクリアにものを考えられるようになった。

 

 

合計4550円だった。

支払いを済ませて外に出ると、まだ雪がちらついていた。

*1:すでに文体が病気に罹ってるやろという意見もありますが、ここまで書いてしまったからには後に引けない

お前のオナニーをみているぞ

また別の平野作品を読んだ。「分人主義」なる思想を明確に意識して書かれているというが、それをぼくは感じることはできても語るを得ないので、置いといて自分勝手な文脈で思いつきを書く。相変わらず鋭くみずみずしい描写で、「あなた、実は登場人物でしょ! 出会ってるでしょ!!」と言いたくなるようなリアリティを感じた。そして、こんなところにまで文学のメスが入っているのかと思うと、少し後ろめたいような感覚におそわれた。

 

『顔のない裸体たち』

 

とはいえ、自分が体験したことは、だいたいこれまでに他の誰かによっても体験されていて、観察されていて、描写されているという考えを持たなかったわけではない。自分だけが世界や歴史から切り離された、唯一無二の独自な存在であるという自惚れは、とうに独りよがりな誤解にすぎないと退けられている。中学の頃にハブられたころの話と関連していることだが、思い出すたびほろ苦い大人の味がする。

 

話が逸れたが、そうではなくて、「ネットの変態ユーザーの精神にハックしてるんじゃないか」と思わせるような生き生きとした筆運びが、残忍なほどによく切れるということである*1

 

しかし、インターネットも深いところまでだいぶん光が当たってきているんだなと思うと、感慨深さと空恐ろしさとが渾然として感ぜられる。ツイッターの裏(エロ)アカウントはすでに見られていて、光を当てられている。そしてそれらは必ずしも閉鎖空間での自慰に供されるのみならず、小説やエッセイの種として作家たちに取り込まれて、暴かれているのだということを意識せずにはいられない。クリンジーである。

 

観察されているという生々しい感覚はあらゆる側面に広がる。恋愛工学も、承認欲求の権化も、ああ、もしかしてぼくのPCジャンキー生活もだろうか。九分九厘そんなわけはないのだが、そう考えるとなぜかむしろゾクゾクするような気もする。思い返せば、小中を思い出しても、生徒会などを引き受けて割と楽しんでいたような覚えがある。

 

他人の視線というものを集めたり集めなかったりした経験を総合すると、ぼくは「辺りを照らすサーチライトには怯え、自分めがけて直射するサーチライトには大胆になる」ようなところがあるんだろうなあ。

 

 

 

各位におかれましては、インターネットの利用の仕方には気をつけてください。お天道様も仏様も見ています。さらに悪いことには文筆家も、警察も。しかし、その視線をすら楽しむ変態には、ぼくも一目置きます。一億総監視を手玉にとる度胸と感性は、また面白い素材になるのかも知れませんね。*2

*1:1文で書けるなら長々とした自分語りは要らんかったんちゃうかという意見もあります

*2:何を書くにしても自分の経験に引き寄せてしか書けないことをこの頃口惜しく思う

禁を破る

一月物語を読みました。
結局、おのがため敷いた禁を自ら破ってしまうことと相成りました。
これまた激烈な体験になりましたが、もう愚にもつかぬことを書くことはよします。
そしてくどくどと反芻するのもやめます。
その代わり、次は森鷗外に進んでみようと思います。
三島由紀夫はまだ読んだことがなく、平野さんが強く影響を受けた作家だということと、大変な事件を起こすほどに壮絶な覚悟を決めることができてしまう危うさとをあわせ考えて、森鷗外の次にくるのがよいと思いました。

 


どうも、この頃心が落ち着かない。一種の躁状態というか、色々が病的に結合しあうような、そういう状態が続く。はじめは面白がっていたが、あんまり興奮しすぎていつも疲れてばかりいると、何か社会生活を困難にする兆しを見るようで、それが不安の芽だといえば不安の芽ではある。当座は、自分の中に宇宙的視点を取り入れて、「自分のひとりやふたり、気が触れたって地球は回る」と思ってやり過ごすことにする。

読書妄想文――「日蝕」(平野啓一郎)を読んで (後編)

 

(前編をうけて続く)

 

興奮冷めやらぬままに書き連ねたら長くなったので、前後編と分け、少し日を置いて投稿しようかとも考えたが、もったいぶるほどのものでもないと思い直して、ここで上げてしまうことにする。

 

読書妄想文――「日蝕」(平野啓一郎)を読んで (前編) - The Loving Dead

 

 

結局、これをきっかけにぼくは何かを形にできるかというと、それは難しいということになるのだが、当初の「学生らしい文章を書くためのヒントに」という目論見は、筆舌に尽くしがたい読後感をもってもはや一切重要でなくなった。時間をかけて、正しい方向で努力を重ね、経験を積み上げることこそが、到達点の高さを決定する主たる因子であるという、ごくあたりまえの事実をふと思い出したからだ*1。せっかくなので、ベテラン名文家から新進気鋭の若手作家へのメッセージ、夏目漱石芥川龍之介久米正雄宛書簡でも引いておこう。

 

あせつては不可せん。頭を惡くしては不可せん。根氣づくでお出でなさい。世の中は根氣の前に頭を下げる事を知つてゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか與へて呉れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈です。决して相手を拵らへてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て來ます。さうして吾々を惱ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。

夏目漱石の手紙(芥川龍之介・久米正雄あて)

 

明治文学によくある、知的探究心の熱を帯びた筆致は、やはり読んで追うに興味と憧憬とをかきたてるものがある。博識に支えられた思索の漂う様を詳らかに記述することが、衒学に陥るを免れるのは、そこに作者の「そう記述されねば嘘になる」という確信と情熱と誠実さが宿っているからに他ならない*2

 

自身を顧みると、そんな「ぼくの心のうちに表現されるのを待っているものたちは、このように書かれなければ本当じゃないんだ」と信じきって書く感覚はかねてから漠然ともっていた。それがブログでエゴに任せて書き散らすことを続けるうちに、ますます強く感じられるようになりつつある。熱弁を振るう際の鼻息の荒さに普段は自覚しているものの、一旦そこへはまってしまうと、そのような些事を気にする余裕すら食い尽くされてしまっている*3

 

さて、「日蝕」を読んで得た妄想、もとい感想は以上だが、なぜ「一月物語」に入らないのか。なんのことはない、勉強しなくてはいけないからだ。そもそも、この休暇は本業をサボりすぎたために溜まりに溜まった負債を帳消しにするのに充てられるべき期間であった。「日蝕」へののめり込み方を考えると、このまま「一月物語」に進む選択肢は、明確に誤りとわかる。この本を座右に残すか、それとも他所へ遣ってしまうか、というところから検討したいくらいだ。

 

ただ、そこまでしはじめると「デジタルデトックスの次はリテラチャーデトックスか」と笑われ、またぼくはそれに応えて「依存の多い生涯を送ってきました」とおどけてみせることになり、事態はいよいよ手の施しようがなくなる*4

 

したがって、ぼくは12時間の空きを文芸作品によって埋める試みは失敗に終わったと結論する。余暇のための活動はもっと気楽にできることでないと不可せんね。

 

scribbling.hatenablog.com

*1:いまとなっては浅はかだったが、正直なところ、「日蝕」には、大衆文学とまでは言わないものの、もっと口語に近い調子で「学生たちの織りなす奇怪な物語」のようなものを期待していた。そこで構成や言い回しについてのアイデアなどをちょっとばかり拝借すれば「もしかして自分にも」などと夢見たりしたのだった

*2:断定的に書いたが、これはぼくがそう書きたかった、いや、書かねばならなかったからである。無論、いくら文豪とてその前提は一介の社会人として現実生活に追われる存在であり、期限や編集者に急き立てられる中で書いた作品の中には、一文筆家として忸怩たる思いを抱きながら、妥協せざるを得なかったものもしばしばあったことだろう

*3:平素よりぼくと関わりを持つ各位には、この点においてしばしば申し訳なく思っております。やかましくして、すみません

*4:余談だが、作者の平野氏は少年時代、太宰治を嫌っていたという。太宰作品の主人公が共通してもつ卑近さや、いわば「自虐風自慢」的な態度が肌に合わなかったらしい(平野啓一郎 vol 1. 三島由紀夫から広がっていった文学体験|プロフェッショナルの本棚|ホンシェルジュ|cakes(ケイクス))

読書妄想文――「日蝕」(平野啓一郎)を読んで (前編)

PC漬け生活と訣別してから18日ほどになる。この「IT機器の使用を一定期間断絶する」行為を称して「デジタルデトックス」ということを最近になって知った。

 

デジタルデトックスの副産物である12時間の空白の一部を、文芸によって埋めてみようという試みとして、つい数日前、新たに小説本を1冊買って読んだ。

 

 

これには「日蝕」と「一月物語」(いちげつものがたり)2作品が収録されている。このうち「日蝕」は京大法学部卒のフレンズが在学中に執筆、上梓し、芥川賞の受賞対象となったデビュー作である(すごーい!)。実はまだ「一月物語」を読んでいないのだが、その理由は後述。

 

スポイラーにならぬよう大雑把に1文で紹介するならば、「中世のフランスにおいて使命感と探究心と幾許かの野望に突き動かされる形で旅に出た新米神学者が、異端哲学を氷山の一角とする『非キリスト的』な世界と対峙した体験を綴った回想録」といったところだろうか。

 

これを選ぶに至ったのは「バーでバイトし、軽音サークルでギターを弾くような"イケてるあんちゃん"が勉学の傍ら書き上げた作品で、こうも大きな賞を取るようなものとは一体如何ようのものか、ひとつ確かめてやろう」という尊大な好奇心と「自分のブログライフのヒントに、うまくいけば、彼の受賞作に及ばずとも遠からぬ、学生ならではの文章を生み出せはしないか」という漠然たる期待とをもってのことだった。

 

立ち読みに、まず、本の中ほどを開いて圧倒された。

なんやこのムチャクチャ硬い文体は!

中島敦の「山月記」を髣髴する硬派な漢文調である*1。およそこれまでの生涯に見覚えのない漢字や読みの並びが200ページ余りに渡ってズラズラズラと続いている。たまたま以前中国語をかじった経験があったおかげで辛うじて知っていたという熟語も珍しくはない。

 

衝撃の第一波をやっとのみくだして頭から読み進めると、20ページに達する頃には、扱われているテーマに対する著者の造詣の深さが顕になる。上に中世のフランスが舞台であることを述べたが、当時の世相の叙述が、国家や教団の動きといった"正史的"なものから、(現代から顧みれば)愚昧な村民や地方の堕落した司祭の生活のような"民俗学的"なものまで、物語の進行上必要十分なだけ、緻密かつ有機的になされている*2。実際、彼がこの作品を生み出すにあたって費やした期間は、資料収集に半年、執筆に半年だという。世の小説家たちが、こと資料収集に際して、いかほどの労力と時間とを用いるのかは寡聞にして知らないが、半年=大学の半期+長期休暇もの間合間を縫って作品のための勉強を重ねていたとするならば、それはもう大変な物知りをなすことだろう*3。フィクションにリアリティを求めるために彼がした努力は、すでにぼくの知識的要求*4を満たして余りある。

 

また、構成も見事で読者を飽きさせることがない。作者は、主人公の視点から見た(narrative)不安を基調とする漸進的かつ発見的な展開を徹底している。これは、(殊に現代社会とは異なる世界を舞台とする)作者からすれば、定点観測に由来する単調さや閉塞感に抗って筆を進めなければならないということを示唆する。読者の理解や発見を徐々に引き起こす「わかりやすさ」と、彼ら引き込んで離さぬようにするための「おもしろさ」とをふたつながらに演出するのは、いざ実行に移そうとすると存外困難な仕事になるのではないかと想像する。ぼくは、そのようなところに古典的なRPG(ロールプレイングゲーム)とのゆるい共通点を感じ取ったが、どうも「主人公が村人との会話やクエストをこなしていく構図」から「ゲームっぽい」という感想を抱いた批評家もいたようだ*5。また、思いつきで言い添えると、この頃俄に話題となった『けものフレンズ』の見せ方にもある程度の類似が認められよう。

 

(後編に続く)

 

*1:インタビューサイトによると、これは三島由紀夫や森鷗外の影響を強く受けているというが、ぼくは三島由紀夫については1冊も読んだことがなく、森鷗外も教科書に載っていた「舞姫」と、昔に書店で偶々見かけて題名だけで「官能的だ」と決めつけて買った『ヰタ•セクスアリス』( = 性生活)のみであるから、残念ながらここに彼らの作品を語ることはできない

*2:ここにVictor HugoのLes Misérablesが念頭にある。名作として永く読み継がれているが、小説•文学作品として味わう者の中には背景説明が冗長に感じられる箇所もあるのではないだろうか。さりとて、別の立場にはその「冗長」のうちに価値を見出すものもあるのかも知れない。もっとも、自らろくに創作活動をしたことがなければ紐解いた書籍の冊数の高も知れている門外漢の意見である。単に当時のぼく自身が長編を読みこなすだけの素養を具えていなかったことこそ、上のような感想を抱いた主因ではないか、という疑いについては排することができない

*3:そもそも、彼は14歳にして三島由紀夫のファンになり、三島由紀夫が影響を受けたフランス文学に興味を広げていたというので、すでにフランスの国史キリスト教の宗教史などに対する理解の素地はあったものと推察される

*4:はじめからさして高くはないだろうが

*5:個人的には、大昔に落書きだらけのWindows 98でプレイしたフリーゲーム Holy Knights 〜忘れられた手紙〜 を思い出す

PCはぼくの救世主でもあった

PCを断ってから10日余になる。経過はまずまず。それにしてもこうして距離を置いていると、これまでの人生のいくつかの局面において、ぼくはPCとインターネットに助けられたことがあったのを思い出す。

前のエントリにおいて、PCをやめた理由を「進路と健康に取り返しのつかない悪影響を及ぼすと思ったから」と説明した。実は以前からディスプレイのもたらす刺激には依存性と脳のリソースを奪う作用があることは感じていて*1、ネットに没頭する毎日の先にある結末を想像するになんとなく不安ではあった。しかしその未来に対する漠然とした不安感は、日々の疲れと相まって、ぼくを教科書ではなくキーボードの前へと駆り立てていた。そして、いよいよ問題は退っ引きならぬと自覚するまで、この悪習慣から脱け出すことができなかったのだ。

 

しかし、ここへ来て「他に何も考えられないようにする」「癖になる」感覚それこそが、当時無間地獄を落ち続けていたぼくの掴むことができた唯一の糸であったことが強く意識されるのである。

 

中学生だったとき、一時期グループから"ハブ"られていたことがあった。そのときにぼくを救ってくれたのが当時流行していた個人サイトの掲示板とフラッシュだった。高校時代に弱り果てて不登校になったとき、ぼくをこの世に引き留めてくれたのはネット配信と動画サイトだった。いまやそこで知り合った人たちとの交流はごく僅かを除いてなくなってしまったが、彼らは確かに当時のぼくの心の支えとなってくれていた*2

 

人生の各段階において、それぞれに適切なPCとの付き合い方というのがあり、ともすればそれが傍目には不健全でナンセンスであるように映ることもあるかも知れない。オンラインゲームにうつつを抜かしたり、自分の趣味に適合するポルノコンテンツ探しに躍起になったり、"しょうもない"動画や小説サイトでゲラゲラ笑ったりフームとうなったりして、苦しい毎日をどうにかやり過ごすことが必要な時期だってある。

 

そしてぼくは苦しい毎日から逃れるしかない時期にどうやら終わりが来たように感じている。PCには、いまは全く触っていないが、将来必ず必要になる*3。また、病めるときには慰めを求めて一時的にどっぷり浸かってみるのもいい。ただ、これからそんな使い方をするときも、これまでの3年間よりはずっと自覚的でありたい。

 

ありがとうパソコン。これからもよろしく。

*1:あくまでぼく個人の感覚です

*2:一方で中学時代のフラッシュには、現在まで続く趣味嗜好を形作ったものもある。「もすかう」との出会いがDschinghis Khan、延いてはドイツ語への興味となったし、「ギコの関白宣言」はさだまさしファンへの入り口となった

*3:この点において単なる麻薬とは決定的に異なる。下手すると依存し思考力が低下したり生活習慣が乱れたりと望ましからぬ結果を招くが、賢く使えば現代において最も便利で役に立つ必須デバイスのひとつである