飛田一夕物語

大阪は西成、関西の肝に、飛田新地という料亭のたくさん並んだ区画があります。その料亭の入口に、別嬪さんと愛嬌たっぷりのおばちゃんが大抵ふたりひと組で座っており、おばちゃんのほうが「おにいちゃん、こんな可愛い子、ほらこっち見たげて」と、どうやら仲居さんを務めてくれる別嬪さんを頻りに宣伝してくれます。さすがは関西で最も名の高い料理組合、いまさら料理の味についてうんぬんするのは二流というのでしょうか、なれば仲居さんのサービスにおいて勝負せんと言わんばかりの意気込みに、ぼくのような素人は、ただもうひたすらに圧倒されるのであります。


しかし、ぼくとてこのまま引き下がるわけには参りません。今日飛田新地を訪れたのはほかでもない、血気盛ん、食欲旺盛なる同志ふたりが腹一杯に大阪のうまい飯を食いに行く、その見送りのためなのですから。ぼくはいいんです、遠路はるばるやってきた同志たちが腹一杯になることが重要なのですから。


全てを見て回るのに小一時間かかるほどにたくさんの料亭が並んでいますから、さすがの腹ペコ同志ふたりもどこで食事をとろうか、迷いに迷っていました。これは彼らふたりに限ったことではなく、飛田を訪れていたほかの青年たちも同様でした。なぜなら、料理組合は一律20分16000円*1という関西随一のプライドの垣間見える値段設定でありますから、いくら年頃の食いしん坊でもおいそれと決めて入ることができないという消極的な理由がひとつ。いまひとつ、積極的な理由には、ぼくたち一行が料亭の前を通るたび店先の仲居さんがニッコリ微笑んで手を振ってくれる……それだけで寒空の底にほの明かりのついたような気持ちになる、ということもありました。


それでも彼らはついに腹をくくって行きました。そして送り出すとき、なぜか知らん、「がんばって」という応援の言葉が自然とぼくの口をついて出てきました。


ぼくはいいんです。その日、飛田へ来ることになるとはつゆ知らず、朝っぱらから浅ましく自分ひとりでお腹いっぱいになってしまっていたのですから。何よりも、そんな高級料亭でいただいてきたなんてことが知れたら、東京から雷を落とされるに決まっているのですから。「へえ、東京に来る金はあらへんけど、豪勢な料亭に行く金はあるんやね」


ぼくは彼らを送り出してから、苦労の染みた作業服を着たおじいさんたちとすれ違い、すれ違い、商店街を通り抜け、動物園前のファミリーマートまでやってきました。150円のカフェラテを注文し、せめてもの奢りにキャラメルソースをふた回しかけ、かき混ぜました。出てきた直後は純白だったふわふわの泡がだんだんと弾けて、残った泡も茶色味を帯び、やがて均一なコーヒー色になりました。そうして店を出て、南の、料亭のある方を眺めつつ、はじめから少しぬるい自分だけのキャラメル•ラテをすすって、ぼくもなんだか彼らと一緒に満たされたような心持がしました。

*1:店頭でおばちゃんと関西弁で交渉すると、値引きしてもらえたりする……こともあると聞きます

数学者?? やるかいそんなもん!!

ぼくはいま酒をのんでいる。「浦霞」という、近所のコンビニの冷蔵庫*1で売られている日本酒の中で最も高い価格帯のもののひとつである。それを飲み干したら、春限定の「のどごし生」をあけるつもりだ。その酒の勢いに任せて以下のことを書く。いささか感情的になっていることを理由に、当エントリを「エチケット袋」に放り込み、「続きを読む」で封をする。以下は酒を飲み過ぎた結果、胸からこみ上がってきた吐瀉物に他ならない。なるほど大抵不愉快な代物には違いないが、床にぶちまけず、きちんと袋におさめたことは、一定の功績として認められねばなるまい。

 

*1:コンビニにあるあの開閉式の冷蔵庫は「リーチイン・ショーケース」というらしい。客が自ら扉を開いて、手を伸ばして中にある商品を手に取るからということなのだろう

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今日も何もないすばらしい1日だった。いや、本当はもう少し書くことはあっただろうが、認知症について考えすぎて、忘れてしまった。

 

『痴呆を生きるということ』という本を読んでいた。学校附属の書店で古書フェアをやっているときに手に入れたやや古い本なので、認知症統合失調症ではなく痴呆・精神分裂病という名称が用いられている*1。まだ読み終えてはいないが、感銘を受けた部分を引いて残しておきたい。

 

第3章「痴呆を生きるこころのありか」第4節「重度痴呆」で、著者は「偽会話」についてふれる。「今日はええ天気ですなあ」「あら~もう食べましてん」「そうですか。うちの孫も、部屋に引きこもってばっかりで……」といった具合に、耳の遠くなった年寄りにありがちな、めいめいが好き勝手なことを言って、めいめいに納得する、意味不明な会話に近い*2認知症が進むと、当然会話はますます混迷していく。しかし、この筋の通らない交流でも、認知症をもつ者同士は納得し、ときには介護者をして「負けた」と思わしむるほどの効果をもたらすという。

 

ここには痴呆という病を得た者同士でなければとうてい達成できないような、理と言葉の世界を超えた直接的な交わりがある、と私には思える。ひととひととの関係性が原初的な姿で、いっさいの虚飾を脱ぎ捨ててそこにある、とでもいったらよいだろうか。

 

ぼくには、著者のこの言葉に「認知症は死ぬまで不可逆的に進行する絶望の病気である」という一方的な悲観を救ってくれるだけのポテンシャルを聞き取った。認知症は、ただ記憶や能力を喪失していくだけの絶望の病気ではない。認知症になってはじめて得ることができる体験、認知機能という手枷足枷から解き放たれた者同士によってのみ可能な裸の魂のふれあいがあるのだ、と。いかにも心強いメッセージではないか。

 

これに勇気づけられたので、自分用に残しておく次第。

 

いい加減な結びだが、これ以上どうあがいてもウソにしかならないような気がしたので、これで、おわり。人生すべて思い通りに事が運んで、やりたいようにやって、死にたいときに死ねるものではない。

*1:当時、すでに新しい名称が導入されていたようだが、まだ現在のように普及していなかったようだ

*2:耳が遠いせいでちぐはぐな会話になってしまっているのは、いわば聞き取れなかった言葉をあたう限り合理的に補完した結果だから、認知症をもつ者同士の偽会話と同一視することは適切ではないかも知れない。第三者からみて、かみ合っておらず、むちゃくちゃだというニュアンスをくみ取ってほしい

何にもないすばらしい1日だった。

 

このごろはWord Power Made Easyという本にも取り組んでいて、いまは100ページに届くか届かないかくらいまできた。いわゆる「ボキャビル」本で、どうもネイティブ向けのような気もするが、定かではない*1。初版が1949年(おじいちゃんおばあちゃん世代!)で、いまもなお一部書店の店頭に並んでいるというロングセラーである。リファレンス本などではなくトレーニングブックで、本書の使い方にも「この本を読むな、この本に取り組むのだ」(i.e. 音読する、書き込む……)と書かれている。日本の受験生向けの英単語本にありがちな、出現頻度や重要度順などではなく、意味や語源のまとまりを重視した構成になっている。それは、筆者の「単語を学ぶことは世界を知り、教養をつけるということであり、正しい思考のための第一歩である」という哲学を反映したものとなっている。

 

教養主義をobsoleteとする向きもあるし、興味の持てない分野を無理に勉強することもないが、英語やことばを学ぶのが好きであるのならば*2、一読の価値*3はあるのではないか。

 

ぼくはこの本の熱い導入が好きだ。いまよりも興味津々、好奇心旺盛だった子どもの頃に戻ったような気分になる。これがこの本の価値の半分を占めていると言ってもよいのではないか。もしもこの導入がなければ、500ページ以上もあるこの分厚い本に、おいそれと取り組んでみようなどとは思えなかっただろうから。

 

When you have finished working with this book, you will no longer be the same person.
You can't be.
If you honestly read every page, if you do every exercise, if you take every test, if you follow every principle, you will go through an intellectual experience that will effect a radical change in you.
(この本を読み終えたとき、あなたはもう元と同じ人ではありません。いられないのです。すべてのページをきちんと読み、すべてのテストをし、すべての原則に従えば、あなたは自身に急激な変化をもたらす知的体験を経ることになるのです)

 

仮にこれだけだったとしたら、下手な新興宗教の勧誘のようで、ない方がマシだったかも知れないが、そうではない。「本当にこの人の言うとおりかもしれない。自分にもできるかも知れない」と思わせてくれる筆者の伎倆がある。ぼくはそれを損なうことなく伝える術を持たないので、気になる人は各自買って読んでみてください。危険思想の本ではありませんので。

 

なんか宣伝っぽくなってしもて肌が粟立ちそうやけど、要するに今日の日記は冒頭の1行に集約されるということやな。この本やるくらいならTOEICをやれという意見もあります。

*1:説明文にちょいちょい知らない単語が入っていたりするが、とりあえず読めるように書かれているので、ネイティブ・ノンネイティブの区別はさして重要ではなかろう

*2:単に"eye doctor"(目医者)と言えばすむところを"ophthalmologist", "oculist"(眼科医)などと呼んでみたいあなたにおすすめ

*3:読んではいけないが

低賃金バイトにみる「人生を生きる」ということ

昨日のエントリで触れた、賃金の安い方のバイトのシフトに入っていた。ぼくの仕事ぶりについては恥ずかしながらこれ以上付け加えることはないので、バイト先の後輩(以下Aさん)のお話。


Aさんは、書き言葉でものを書くことがあまり得意ではない。それは「書くのは苦手だ」という人の意味するところの「文章構成力の不足」や「思考内容-表現内容間の齟齬」といった文章単位の話ではなく、正書法に則った「わ」と「は」の書き分けなどといった文節ないし文単位の話である。「○○わ××やって、Zさんがゆうたはりました」(○○は××であると、Zさんがおっしゃっていました/言っていました)のような方言混じりの話し言葉を「音訳」したようなメモ書きや報告があれば、それはAさんによって書かれたものだと直ちに察せられるということだ。社外向け文書ならいざ知らず、基本的には社内の人間の目にしか触れない業務連絡ばかりなので、誰かが差し出がましく訂正するといった様子はない。

 

Aさんは、実によくはたらく。ただのはたらきものではなく、クリエイティブに、主体的にはたらく。ぼくがいかにうまく手を抜いて掃除をするかむなしく企んでいる間に、Aさんは備品の手入れをし、破れた壁紙にチェックのかわいらしいパッチを当て、裂けたぬいぐるみを縫い直し、掲示物に季節感あふれるイラストを添えてしまう。連絡用のメモ書きなどの社内向け文書においても、シンプルながら整った色つきの囲みや下線などで、見やすくなる工夫を施してあることも多い。

 

こういった工夫について、以前「すごいですね。ようしはるんですか、こういうこと」と問うた。「好きなんですよ、こういうの。逆に、家庭科の実技以外全然ダメですけどね」とニコニコしながら答えてくれた。

 

Aさんは、本当にこの仕事に向いているんだろうなと思う。

 

Aさんは、小学生のころから学校を休みがちで、中学生のあるときにぱったり行かなくなり、そのまま高校にも進学することもなく、いわく数年ほど「家でだらだら過ごして」いたという。裁縫やら装飾は、この時期から近所に住む親戚の子どもたちとの遊びを通じて自然と上達したらしい。いまの仕事を通じてぼくの後輩になったのが、去年の夏のことだった。これがはじめてのバイト、はじめての社会経験だと言っていた。

 

この職場の従業員のほとんどは入社時期から言うと後輩だ。大抵の後輩に、ぼくはユルユルガバガバな先輩として接している。「そこそこでええんですよ~」というだけのおいしい役回りである。そんなぼくに、Aさんは「今日暇過ぎてほんまだるい~」と声をかける。ぼくは「や~ほんまやな~。ラインかツイッターでもチェックしといてください」などと返す。その実、ぼくはAさんがこの仕事にどれだけ積極的に取り組んでいるかを普段から感じ取っているから、このようなやりとりのたびに内心恥じ入っている。

 

ぼくは昨日のエントリでこの仕事をmenialと形容した。たしかに最低限の要求はmenialだ。金の勘定と、簡単なレジ操作と、マニュアル化された客対応のしかたさえ覚えればすぐ戦力になれる。簿記検定もTOEICも、普通免許証さえも必要ない。しかし、やる気とセンスがあればAさんのようにはたらくこともできる。賃金には一切反映されないが。

 

なるほど政府の意向に沿った形で普通教育を受けきったわけではないし、現代の世俗的な価値観で絡め取ってしまえば、Aさんの軌跡は「不登校からの低時給バイト」なのかも知れない。しかし、ぼくは裁縫や装飾をこなすAさんの中に、生きるということを、安易に時代や社会の潮流に身をゆだねるのではなく、かといって反抗するのでもなく、高望みするわけでも、卑屈になるのでもなく、ただこうあるよりほかないという自分のあり方で、すなわち庶民として<生きるという手仕事> *1のうちにとらえようとする姿を認めるのだ……というのは生きた人間に対してあまりに穿ちすぎた見方であろうか*2

 

ぼくもそろそろ、はるか遠い未来に目指すべき自己像ではなく、いまある自分の両手をじっと見つめ、この手は何ができて、どう使われねばならないのかを、問うてやらねばならない時期にさしかかっているような気もする。

 

 

まーた自意識こじらせたエントリを書いてしもた。

*1:http://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/11/k01-32p.pdf 第1問 『失われた時代』(長田弘)

*2:Aさんの、より「ちがった」未来の可能性を否定したいわけではない。生きている限り、この先どんなライフイベントを経験することになるかはわからない。ただ、少なくとも現時点において、ぼくよりは着実に「Aさんは自分の生きなければならない人生を生きている」と感じるのである

ぼくはバイトをふたつやっていて、今日は賃金の安い方のバイトの日だった。安い方は確かに全体的にmenialな仕事内容で、疲労も少ないのだけれど、いかんせん退屈なのがいけない。かといって合間に勉強などをして有意義に暇をつぶせるほどの余裕もない。単語帳くらいは開けないこともないが、これも熱中しすぎると「仕事中に本を読むのはやめてください」と後でおしかりを食らう(食らったことがある)ので、結局使う神経の割に得るところの少ない上滑りの勉強になってしまう。となると、せいぜい15分に1回スマホを左太もものあたりでチョンチョン操作するのが関の山である。

 

とはいえ、この春から学校が忙しくなりそうだということで、1回のシフトを5時間から2, 3時間までにしてもらうことができたので、しばらくはこの短縮のありがたみをかみしめていくことにする。

 

職場の人間関係などでさして不満があるわけではない。たかだか、かくも中途半端な従業員を雇ってくれていることに、感謝と、自ら招いた引け目とを感じるばかりである。

 

 

そして、これからはなるべく毎日ブログを更新しようと考えている。日記としてのブログだ。

 

先月は「ブログ的なブログ」*1を目指そうとしていた。ところが、自分以外のことについて批評する勇気もいまいち湧かなかったので、結局、自分自身の内面を穿り返したようなほとんど何の役にも立ちえない、いや、それどころか黒歴史になるリスクを大いに孕んだ題材を、そうと認識しつつも、書くよりほかなかった。ぼくには、「ブログ的」なものを書くための素養が全然足りていない*2

 

だから、ぼくは、「少なくとも自分が後から見返したときに書いてあることが理解できるエントリ」を積み重ねていきたい。それがたとえ他人にとってどうでもいいことでも、せめて未来の自分くらいは、当時の自分を抱きしめてあげられる存在でありたい。

 

(いま、ラリってる状態で書いているので、正文よりなる文章を書いているつもりでも、クリアなマインドで読むと、なんともネイティブらしくないものを書いているかも知れない)

*1:商品やら書籍やらの紹介や旅行記やら、そういう典型的なブログ

*2:これは某先生の言う「クンフー」以前の問題である。ぼくとほぼ同い年の、しっきーさんの持つほどの素養にすら恵まれていない。ああ、パソコンに吸い取られた3年間がますます悔やまれる!

だんだんと、春めいてきましたね

シロクマ先生が、承認・所属欲求の本を出されたということで、いま手元にある未読本を読み切る手前で購入しようと思っていたら、話題沸騰、アマゾンでは瞬く間に在庫がなくなってしまったそうな。インターネットの片隅で、背伸びをしては、筋を違えて懊悩する若造としては、大変気になるところであります。都合のよいことに、わたしの通学路上のある点の、十分小さい近傍*1に存在する書店にも置いてあるらしいので、今度、寄ってみようと思います。

 

今日は、『火花』を読み終わりました。チーズケーキを食べました。もらったコーヒーをのみました。だんだんと、あたたかくなってきましたね。今月は、そんな手触りたいせつに、過ごしてみたいとおもっております。

 

 

こういう読点の多い文章書き始めたら、おっさんになりはじめた証拠やど。気いつけや*2

 

 

追記: 地球はS^2と同相なのでR^2とは違いますが、そこは多様体の考え方で、こう、なんとかしてください。座標近傍とか……えっと、あ、あの……あの……。

 

 

あの日した炎上の理由を僕達はまだ知らない。

*1:R^2の通常の位相

*2:誰への当てつけでもありませんから、誰も傷つかないで。おっさんは、ええもんや