件のカラーボックスを組み立てた。というよりも、部屋の大整理の一環として本棚が自然にできあがった。勉強用の本棚に、趣味用の本棚、洗濯カゴにごちゃごちゃ積まれていた本が形良くおさまった。スッキリして気持ちがいいのだが、思っていたよりも量感に欠けていて、改めておのれの不勉強を目の當たりにした。

 

iPhoneのメモ帳でこのエントリを書いているのだが、さっきコピペ操作を誤ってはじめて選択範囲の簡體字と繁體字を自動で切り替えてくれる機能がついているのに気がついた。すごい。これがあれば一瞬で昔風の賢そうな文章が書けてしまうではないか。大変ずるい。と思っていたら日本の漢字は簡体字を一致していない限り変換しないようだ*1。残念。

*1:変とか気とかいう字がそのままになっている

組み立て本棚

今日は本棚をひとつ組み立てようと思って、できなかった。サークルの新歓やバイトでなんやかんや遅くなってしまった。以前に2セット組み立て式のものを買ってもらって、そのうちひとつだけ組み立てて利用していたのだが、天板へものをのせすぎたためか全体が変形し、ついに棚板(本を置く板)が引っかからなくなってしまった。元本棚が本来の機能を失い、ただのひしゃげた箱と化してから2年ほど経つが、整理のつかない書類を吟味せず放り込むためのずぼらスペースとして一応役には立っている。肝心の書籍はというと、100均で仕入れてきたポリプロピレンの洗濯かごに積んである。

 

しかし、やはり本は本棚にあるべきだと思う。積んである本を引っ張り出す労力が無駄だからというのがひとつの理由だが、さらに積極的にそうするメリットがある。それは自分がどんな本を持っているかを一目で確認できるということだ。すると例えば読む本を意識的に覚えておく必要がない。手持ちの本の全体像がはっきりし、これからの方向性を見いだすのに役立つ。あるいは、差し迫って重要な本や取り組み中の本はしまわずに手近なところへ置いておくというのは普通のことだが、本棚があれば、その他の本とのコントラストができ、自分の感覚や予定を物理的な距離に置き換えるといった工夫なども可能であろう。

 

所詮片付け下手な人間の夢物語に過ぎない。もうひとつの本棚を組み立ててもなお散らかったままの部屋を見て「へんだなー」とつぶやくのがおちである。

将来のために保険数学を勉強してみようと思い、附属書店で教科書を買った。帰ってから袋をひっくり返すと教科書のほかに、なぜか小説がゴロゴロと4冊出てきた。

 

ちゃうねん。前まえから気になってたけど『葬送』シリーズってぶっといのが4冊もあるから、勢いで行かななかなか買えるもんやないやん。

 

言い訳未満の言い訳(ill-defined)だが、そういうわけで預金残高の危機をかえりみず、つい手を出してしまった。

 

数学科4回生対象の講義には、あまり見覚えのない人がたくさんいた。そしてぼくもまた多くの人にとって「見覚えのない人」のうちのひとりだったに違いない。

 

ああ、しかし、本当に最終学年になってしまった。この3年間一体なにを学んだというのか。いや、過ぎたことはもうよい。これからの半年を本気でやっていかなければ、ぼくが葬送されてしまう。アクチュアリーをとって、もう少しまともな武装をしてから社会に出る。数学バリバリマンにはなれそうにないので、せめて手に職を……。

サークルに参加してみた

国際交流系のゆるいサークルに参加した。ゼミの顔合わせが少し長引いたので開始時刻に間に合わなかったがあたたかく迎え入れてくれた。とりあえず英語やら日本語やらのチャンポンでしゃべっていたら2時間が経っていた。楽しかった。学校やら娯楽番組やらで大量に摂取したアメリカ英語を、心持ち容認発音で希釈した程度のなんちゃってイギリス英語だが、話し方がダニエル•ラドクリフみたいだと言われると顔がほころぶ。

 

やはり所属である。この頃何かにつけて所属所属とバカのひとつ覚えのようだが、一見意味に乏しい消費的な群れでも、群れているだけで安定し、それだけで明日への活力に繋がっていく。ほんまかいな。

 

数学に向き合い続けると否が応でも意識が「限界」に毒されてしまい、機能低下を引き起こす。本当は少しずつでも壁はメリメリ外側へ広がり続けているはずなのに、自分の「もっと前へ進まねば」という欲求が先んじて現実の端に到達しまう。その状態で放っておくと、劣等感とか被害妄想とか無価値感とか、とにかく惨めなほうへと進んでまことろくなことがない。

 

幸いにしてゼミのメンバーとの親睦会なるものが開かれるらしい。なれば少なくとも潤っていくことを志向していると考えてよいはずだ。先方とどれくらいお近づきになれるか、またそうなりたいと思われているかは未知数だが(他人と関わるのが苦手だと感じている人に無理やり近づくのはよくない)、とにかくこれを機に1年を共に過ごす仲間と打ち解けられたらいいなと思う。

 

にんげんがさき、すうがくはあと。

TIL Swedes are generally proficient in English because of the media.

このごろはYouTubeでいろいろな動画を英語でみている。英語の勉強とエンターテインメントを兼ねようというもくろみである。その中で、ゲーム実況者のPewDiePie *1は大変流暢なアメリカ英語を話すのだが、実は生粋のスウェーデン人だというのが意外だった。

 

And this is how he speaks and responds. これはテレビ向きの顔とでもいうべきもので、実際の実況ではもっとひどくやりたい放題である。



調べてみると、スウェーデンは娯楽番組を国外(主にアメリカ)からの輸入にかなり依存しており、さらにスウェーデン語話者の人口を考えると吹き替えはコストパフォーマンスがあまりにも悪いので、「英語の番組に字幕だけつけて流す」というスタイルが主流になる。スウェーデン人は幼少の頃からTVを通じて英語に慣れ親しんでいるので、必然的によく話せるということになる。スウェーデンではイギリス英語を教えられるというが、確かにPewDiePieが話すのはアメリカ英語であるし、彼に限らず大多数がそうであるという。

 

環境のおかげで自動的に英語がよく話せるというのは、英語の習得に時間と労力と費用をかけてきた日本人からしてみれば「努力もせずともバイリンガル」という事実がうらやましく聞こえそうだが、「国民全体が必要に迫られて特定の外国語を習得する」という状況が必ずしもよいことであるとは限らないことには注意しておく必要がある。「英語が苦手な日本人としての苦しみ」を認めつつ、「英語を身につけねばならぬ先方の事情」を思いやれるだけで、国際人レベルは高くなる*2

 

とはいえ、楽しんでふれ続けたものが強みになるということの好例として、頭の片隅に置いておきたい。久しぶりにドラマでも見てみるか。

*1:世界一稼いでいるYouTuberらしい

*2:国際人が何のことかわかってへんけどや

来週あたりからはじまるはず(だがまだ連絡も来ず宙ぶらりん状態)のゼミの本を試み程度に読んでいた。解説が丁寧で初学者にやさしい入門書といった感じで、ひとりで取り組んでも楽しいかもしれない。発表はあまりしたくない……。

 

やっていきましょうということでやっていった*1

リーの恋愛タイプ測定テスト:LETS-2 恋愛診断

 

なるほど。

 

LudasとAgapeの比率に人間への疲れがあらわれていますね。当初の自分はAgape極振りだったのでしょうが、人間は経験という変数に強く従属する関数なので、変わります。嫌なら定数になってごらんなさい。そして自ら課した規範をもって、おのれの首を絞めるがいい。ただStorgeが大事なのは多分昔からそう。ここは定数。微分したら消えるやつです。ところで、微分して積分しても元にもどるとは限らない、そういう世界もあるということを最近知りました。

 

この手の診断はこっそりやって誰にも見せずにそっと閉じるようにしているが、今回は公開してみた。春ですから。ぼくは何も特別な存在ではないので、本来恥ずかしがることは何もないのです。みんなと同じです。原子核の周囲にまとわりつく1個の電子です。同じです。恥部はどんどん露出していきましょう。それがみんなの勇気になるのです。

*1:実はつい最近1回やっていて、そのときの結果とは違う。前回は「少しちがう」とか「少し当てはまる」などの中途半端な回答が多かったので、今回はなるべくきっぱり回答した次第

白浜旅行

南紀白浜へ、友人の青春18切符を使い切る旅行に出た。朝8時過ぎに集合し、車内ボックス席で口を開けつつ寝て、着いたのが13時半。長距離移動の精神的な疲れは、値段の割に質の高いホステルと白良浜の澄んだ海水が直ちに吸い取ってくれた。

 

初日のハイライトは三段壁。煽情的な表現をするならば、日本のグランドキャニオンということになる*1。投身自殺も多いようで、近くに慰霊碑や自殺防止の看板が立ててあったが、それでも人の命を取り去る重力ポテンシャルを持ったポイントは無数にあり、またそこへ通ずる石畳の小径も少なからず用意されていた。縁へ近づくのは自己責任ですよという白浜町のメッセージを感じ取った。

 

f:id:der_teufel_ist_los:20170407132053j:image

 

眺めがどれだけの壮観であったか、私の撮影技術では持ち帰ることができない。私の撮る写真はいつだってその場で得た体験を矮小化する。ただ、左上にうつり込んだ人影を縮尺に、もとの体験を想像していただくことなら可能かも知れない。


2日目は海に半分突き出た露天風呂、崎の湯温泉が素晴らしかった。まず建物らしい建物が存在しない。脱衣所は屋根のついたバスの停留所ほど狭く簡素なつくりで、そこを抜けたら後は女風呂との仕切り以外に壁は何もない。ほぼ全方位から丸見えである*2。そのような他者の視線は、はじめこそ意識されたが、20分ほど海を眺めながら湯に浸かっているうちにどうでもよくなった。しばらく湯に浸かったら、横の岩の上に座り春の潮風で火照った体を冷ます。風呂に当たって砕ける波の複雑でやさしい音色が心地よく脳を満たし、脳裏に澱んでいた観念を洗い流す。まぶたを閉じてみると、いよいよ時間そのものを忘れそうになる。なぜこの場を動かねばならないのだろうか。一体何が私を動かすのか。これが母親のうちに眠る胎児の感覚だと言われれば納得しただろう。

 

結局2時間弱を過ごした後、半ば友人に連れ出されるようにして崎の湯を後にした。石鹸、シャンプー、リンスの類は持ち込み禁止だが、精神の洗浄能力においてこの右に出る温泉を私は知らない。

*1:三段壁は崖でグランドキャニオンは峡谷である。崖について何らか語り得るに足る知識のなさがうかがい知れる

*2:実際私たちは数百メートル先にある海に突き出た展望台に訪れる観光客を視認した