はじめての図書館

今日は近所の図書館を勉強目的で利用してみた。案外快適で、自宅の床に座って肩を凝らすよりもずっとよい。もともと本を借りるということが苦手で、また勉強は自宅か学校か塾か、まれに喫茶店などでするものという認識だったのだが、このあたりで図書館とお近づきになっておくのも悪くない。

 

行きがけの駄賃に北朝鮮関連の本でも1冊借りて帰ろうと思ったが、利用者カードを発行してもらうために必要な現住所を示した書類が見当たらず、断念した*1

 

今度からは勉強して、飽きたら手近にある本を適当に読むというスタイルでやるとはかどりそう。どうせ予定がなくて家に引きこもるくらいなら、自転車ですぐいける図書館にでかけるほうが気分がいい。

*1:学生証には住所が記載されていない

自己紹介の時季である。はじめこそいかに簡潔さと誠実さとが手をつなぐ点を見いだそうとしたが、どこをどう切り取ればよいのか判然としない。そしてやはりいまの自分の力ではどうしても無理が生じると悟ってからは、不自然でない範囲で自分の情報をなるべく出さずに場の話題を楽しむことにしている。「4回なんです。いまさらですけど活動してみようと思って~」と言っておけば事足りる。

 

自分はどうしても後れている。この後れが何によってもたらされたのか、どういう事情があったのか、言葉でとらえ損ねたストーリーの断片が意識下へと抜け落ちる。手許に残った抜け殻からは到底満足のいく説明は導き出せない。それにそのストーリーの断片をいまさら必死になって拾い集めようとする行為そのものが、いかにも潔さを欠いた言い訳がましい態度のあらわれであるような気がして、結局「自分の無能ゆえ」という、安易で苦い結論をとりあえず採用するよりしかたがない。

 

みんなそれぞれに事情がある。ストーリーがある。それは明白なことだ。ぼくは自身の独自性、特殊性を信じているわけではない。むしろ逆で、自分のストーリーも凡百のうちのひとつに過ぎない、ぼくでなくとも誰が抱えていたって不思議ではない、ありがちな苦労話として手放そうとしている。これまで何度もそうしたつもりなのだが、気づけば部屋の隅に積もっているホコリのごとく意識される。

 

件のカラーボックスを組み立てた。というよりも、部屋の大整理の一環として本棚が自然にできあがった。勉強用の本棚に、趣味用の本棚、洗濯カゴにごちゃごちゃ積まれていた本が形良くおさまった。スッキリして気持ちがいいのだが、思っていたよりも量感に欠けていて、改めておのれの不勉強を目の當たりにした。

 

iPhoneのメモ帳でこのエントリを書いているのだが、さっきコピペ操作を誤ってはじめて選択範囲の簡體字と繁體字を自動で切り替えてくれる機能がついているのに気がついた。すごい。これがあれば一瞬で昔風の賢そうな文章が書けてしまうではないか。大変ずるい。と思っていたら日本の漢字は簡体字を一致していない限り変換しないようだ*1。残念。

*1:変とか気とかいう字がそのままになっている

組み立て本棚

今日は本棚をひとつ組み立てようと思って、できなかった。サークルの新歓やバイトでなんやかんや遅くなってしまった。以前に2セット組み立て式のものを買ってもらって、そのうちひとつだけ組み立てて利用していたのだが、天板へものをのせすぎたためか全体が変形し、ついに棚板(本を置く板)が引っかからなくなってしまった。元本棚が本来の機能を失い、ただのひしゃげた箱と化してから2年ほど経つが、整理のつかない書類を吟味せず放り込むためのずぼらスペースとして一応役には立っている。肝心の書籍はというと、100均で仕入れてきたポリプロピレンの洗濯かごに積んである。

 

しかし、やはり本は本棚にあるべきだと思う。積んである本を引っ張り出す労力が無駄だからというのがひとつの理由だが、さらに積極的にそうするメリットがある。それは自分がどんな本を持っているかを一目で確認できるということだ。すると例えば読む本を意識的に覚えておく必要がない。手持ちの本の全体像がはっきりし、これからの方向性を見いだすのに役立つ。あるいは、差し迫って重要な本や取り組み中の本はしまわずに手近なところへ置いておくというのは普通のことだが、本棚があれば、その他の本とのコントラストができ、自分の感覚や予定を物理的な距離に置き換えるといった工夫なども可能であろう。

 

所詮片付け下手な人間の夢物語に過ぎない。もうひとつの本棚を組み立ててもなお散らかったままの部屋を見て「へんだなー」とつぶやくのがおちである。

将来のために保険数学を勉強してみようと思い、附属書店で教科書を買った。帰ってから袋をひっくり返すと教科書のほかに、なぜか小説がゴロゴロと4冊出てきた。

 

ちゃうねん。前まえから気になってたけど『葬送』シリーズってぶっといのが4冊もあるから、勢いで行かななかなか買えるもんやないやん。

 

言い訳未満の言い訳(ill-defined)だが、そういうわけで預金残高の危機をかえりみず、つい手を出してしまった。

 

数学科4回生対象の講義には、あまり見覚えのない人がたくさんいた。そしてぼくもまた多くの人にとって「見覚えのない人」のうちのひとりだったに違いない。

 

ああ、しかし、本当に最終学年になってしまった。この3年間一体なにを学んだというのか。いや、過ぎたことはもうよい。これからの半年を本気でやっていかなければ、ぼくが葬送されてしまう。アクチュアリーをとって、もう少しまともな武装をしてから社会に出る。数学バリバリマンにはなれそうにないので、せめて手に職を……。

サークルに参加してみた

国際交流系のゆるいサークルに参加した。ゼミの顔合わせが少し長引いたので開始時刻に間に合わなかったがあたたかく迎え入れてくれた。とりあえず英語やら日本語やらのチャンポンでしゃべっていたら2時間が経っていた。楽しかった。学校やら娯楽番組やらで大量に摂取したアメリカ英語を、心持ち容認発音で希釈した程度のなんちゃってイギリス英語だが、話し方がダニエル•ラドクリフみたいだと言われると顔がほころぶ。

 

やはり所属である。この頃何かにつけて所属所属とバカのひとつ覚えのようだが、一見意味に乏しい消費的な群れでも、群れているだけで安定し、それだけで明日への活力に繋がっていく。ほんまかいな。

 

数学に向き合い続けると否が応でも意識が「限界」に毒されてしまい、機能低下を引き起こす。本当は少しずつでも壁はメリメリ外側へ広がり続けているはずなのに、自分の「もっと前へ進まねば」という欲求が先んじて現実の端に到達しまう。その状態で放っておくと、劣等感とか被害妄想とか無価値感とか、とにかく惨めなほうへと進んでまことろくなことがない。

 

幸いにしてゼミのメンバーとの親睦会なるものが開かれるらしい。なれば少なくとも潤っていくことを志向していると考えてよいはずだ。先方とどれくらいお近づきになれるか、またそうなりたいと思われているかは未知数だが(他人と関わるのが苦手だと感じている人に無理やり近づくのはよくない)、とにかくこれを機に1年を共に過ごす仲間と打ち解けられたらいいなと思う。

 

にんげんがさき、すうがくはあと。

TIL Swedes are generally proficient in English because of the media.

このごろはYouTubeでいろいろな動画を英語でみている。英語の勉強とエンターテインメントを兼ねようというもくろみである。その中で、ゲーム実況者のPewDiePie *1は大変流暢なアメリカ英語を話すのだが、実は生粋のスウェーデン人だというのが意外だった。

 

And this is how he speaks and responds. これはテレビ向きの顔とでもいうべきもので、実際の実況ではもっとひどくやりたい放題である。



調べてみると、スウェーデンは娯楽番組を国外(主にアメリカ)からの輸入にかなり依存しており、さらにスウェーデン語話者の人口を考えると吹き替えはコストパフォーマンスがあまりにも悪いので、「英語の番組に字幕だけつけて流す」というスタイルが主流になる。スウェーデン人は幼少の頃からTVを通じて英語に慣れ親しんでいるので、必然的によく話せるということになる。スウェーデンではイギリス英語を教えられるというが、確かにPewDiePieが話すのはアメリカ英語であるし、彼に限らず大多数がそうであるという。

 

環境のおかげで自動的に英語がよく話せるというのは、英語の習得に時間と労力と費用をかけてきた日本人からしてみれば「努力もせずともバイリンガル」という事実がうらやましく聞こえそうだが、「国民全体が必要に迫られて特定の外国語を習得する」という状況が必ずしもよいことであるとは限らないことには注意しておく必要がある。「英語が苦手な日本人としての苦しみ」を認めつつ、「英語を身につけねばならぬ先方の事情」を思いやれるだけで、国際人レベルは高くなる*2

 

とはいえ、楽しんでふれ続けたものが強みになるということの好例として、頭の片隅に置いておきたい。久しぶりにドラマでも見てみるか。

*1:世界一稼いでいるYouTuberらしい

*2:国際人が何のことかわかってへんけどや