はじめてのサークル本活動

サークルというものにはじめて所属してみた。文化系のサークルである。今日が新歓ではない初練習日だった。練習後の食事まで楽しかった。明るくて愉快な人たちがたくさんいて、その場にいて話を聞いているだけでこちらまで感化されてまっすぐになっていくようだった。そして男子校というのはやはり興味深い環境だと改めて感心する。特になりふり構わず、多少危ない橋でも躊躇なく渡り、場を盛り上げていく方向へひたすら加勢していく姿勢は財産だとさえ思う。彼らの嘆ずるところの犠牲となったティーンエイジは必ずや何かしらの形でちゃんと結実しているのだと励ましたくなる。

 

話題はぼくの経歴にも及んだ。ぼく自身もどこかのタイミングで話して楽になりたかったというのもあったと思う。聞かれればよろこんで答えるつもりだった。ところがいざその話題になってみると表現がスライムのごとくまとまらない。「メンヘラ」「共依存」「中退」と乱雑にテクニカルタームパワーワードをちりばめて、そういう風変わりとも病気ともつかない世界もある、とすまし顔で言い切ってしまうのもひとつの手だし、実際に場の性質と聴衆の顔ぶれを見ればそれも十分に解たりえたと思う。会って間もない、身の上もろくに知らぬ複数人を前にして、突如長々と自分語りをぶち上げるだけの勇気や技術は、どのみち持ち合わせていなかった。

 

ここいらでもう一度、今度はぼくと関わりを持ってくれている人たちのために、過去を振り返っておく必要を感じた。この妙ちきりんな人生が、誰かのアミューズメントとなれば、過去のぼくは十分に報われるだろう。

 

時系列にそって書き並べる - The Loving Dead

 

 

ふたりのうちどちらかがぼくに気があるのかなと思っていたら、案の定Mに告白された。 断る理由が特になかったので付き合うことにした。

時系列にそって書き並べる - The Loving Dead

 


断る理由がないから付き合ったというのは、間違ってはいないが、いささかドライすぎる言い回しだ。照れが入っている。実際は大いなる愛を告白されていた。そこには不幸を補う役目を要求する兆しはなく、ただ素朴で純然たる愛情をのみ感じた。ぼく自身これまでの異性へのアプローチは大抵失敗していたこともあり、そこまでの愛情を告白されて、胸を打たれずにはいられなかった。手紙、メール、おまけにバレンタインの生キャラメルという形で裏付けられた熱意をどうして無視することができただろうか。

 

 

冬休み1週間前にいよいよぼくのほうが爆発してしまった。 夜の12時を過ぎても家に帰らないので、親がぼくの携帯に電話を入れてきた。 彼女を放って帰れないのと親から家に帰るよう促されるのとの板挟みにぼくはパニックになり、過呼吸を起こした。

時系列にそって書き並べる - The Loving Dead

 

 

冬休み前の爆発について、パニックを起こしていたのは事実だが、本当は少し演技も入っていて、過呼吸*1は半分意図的に起こした覚えがある。無闇に速く浅く呼吸をすれば意識がカフェインだかアルコールだかを過剰摂取したときのように朦朧とした状態になるので、あとはそれを口実にぐでんとしていればよい。言ってみれば、その場から逃げ出すためにそういう状況をあえて作り出したのであって、いまだにどこか恥じているような節がある。

 

修正すべき点といえばこれくらいで、あとはまあぼくの主観視点での物語としては筋をとらえられている。全く別の話をしているところへ出しゃばってまでする話ではないが、無理に覆い隠してしまうのも気力を要する上に、場に対する不自然を免れないので、なるべく不愉快に聞こえないような工夫だけ加えて話したい(やはり女性には特に気を遣ってしまう)。

 

*1:過呼吸は身体的に酸素を必要とする激しい運動の後に起こるもので、精神的な要因のものは過換気症候群というらしい

かつて一度レールを外れたからといって、開き直って非現実的な道を非現実的な方向へ邁進し続けるわけにもいかない。進路を決するというのはどうも困難を伴う。まず選択肢を寄せ集めて机上に並べるという作業に骨が折れる。どこから手をつけたらよいのやら。院へ行くといって、その実決定を先延ばしにしているだけではないかという疑いもある。問題を解くのは、解けてみると案外楽しい。ある程度解けてまたある程度解けずに解説をみて理解に努めるというくらいの難易度が前進を感じて気持ちがよい。しかし研究ということになるとまた話はがらりと変わってくるのだろう。

 

自由を手放すことが恐ろしいのではない。宙ぶらりんはもう懲りた。そろそろ現実大陸に足をつけたいと思うが、それもやはりどこから手をつけたらよいのやら。人生はどうしてこんなに急ぎ足。

 

院試勉強がしんどい

この目の前の1問1問に心を煩わされたくない。解けたなら解けたなりの、解けなくても解けないなりの経験値が脳裏に沈着する。かなうことならばその様子をただ見守るだけでよい、ということになってほしい。しかし、その経験はぼくをいったいどこへ導くのであろうか。

 

行く道の暗がりを凝視してはわからず、わからねば凝視するのストレスフルな泥沼にとらわれて、いよいよ視野が狭くなり、無為に気力を費やし、気力が尽きれば不安に支配される。こうなるとひとりで脱出するのは難しくなるから、他人との関わり、睡眠などによって負のスパイラルを打ち切る。

 

ぼくは世の中のどこに繋留されているのか。あるいは漂流しているのか。その綱はゴム紐のように伸縮性があるのか、それとも引っ張ったら前触れもなく切れてしまうのか。

 

まとまりがない。しかたない。

現在の人と物事に身をゆだねる

このごろは当時を思い返すにつけて、どれだけの苦難を味わったかよりも、むしろあの頃の自分がどういう哲学で動いていたのかということに意識をクリアに向けられるようになってきている。自省に伴う痛みが薄れ、自分になすすべがなかったと確認する作業にも倦みはじめた。いまとなっては自分を慰めることにほとんど意義を見いだせない。さすがに飽きた。なぜ飽きたかというと、目の前にもっと差し迫った日常と、もっとおもしろい人間関係に、自分自身を分散してゆだねることができるようになったからだと思う。

 

ゼミの予習、サークル活動、友達との宅飲み、連れからかかってくる電話、遠出、読書、バイト……。いまのぼくが生きているこういう場面に単純に打ち込むことが肝要であって、過去の記憶の引力に身を任せてあえて自分自身を目の前の世界から切り離し、孤独に苦しむ必要はないのだという思いに至りつつある。それだけ目の前の人たちや物事に無視しようのない実感が増している。そしていま過去を振り返るとすれば、それは現在の手触りを足がかりとして、よいしょよいしょと霧がかった崖を淡々と攀じ登るようにしてである。痛みや疲労をも第三者として観察しながら、果てに見えるかも知らぬ澄み渡る景色への漠然とした期待をもって、たとい期待通りの景色でなくとも大して失望しないか、その失望をすら楽しむ。疲労感を味わう。節ぶしの痛みをこらえながら、そこに人体の不思議という観念を持ち込んでおもしろがる。

 

そしてこれこそが自分が進んで引き受けたかった人生なのではないかと考えつく。いつぞや、苦難にあってもそれをひとまわり上の世界より見下ろしながら、万人に認められぬとも自ら納得して意味を切り開いていく、そういう人生を望んだことがあったかなかったか。もっと言えば、認められる方は世間に任せて、むしろ認められぬ方にこそ好んで突き進み、自ら耳目を用いてそれを経験せねば気が済まないといった気質はついぞ途切れたことがない。その好事家精神は、卑近な例でいえば、開封の機に恵まれず実家で"塩漬け"にされてしまったシュールストレミングを思い、食通たちのブログを指をしゃぶりながら読んでは、いつの日か、と希望を持ち続けるといったところにもあらわれている*1

 

そう、この感覚。とりあえず通りいっぺんと思われることは他人に任せて、自分は誰もやりたがらない意味不明なことをやる。ぼくの性欲もこの法則に従っている*2。世間はこのうちマジョリティをけなしてまわる輩を称して「逆張り冷笑系」と蔑して呼ぶ向きもある。それは自ら好き好んで逆方向へ突き進むこととは似て非なるものと心得ている(いや、似てすらもいない)。そこに世間への憎しみはない。侮蔑もない。むしろ自分がいまいち興味のわかない分野を担ってくれている分感謝しているくらいのものだ。世の中が当たり前で動いているからこそ、そこに縄の一端を結びつけ、他の一端を自分自身にくくりつけて好き勝手やらせてもらえている。その好き勝手も度が過ぎれば周囲から「それはやめとけ」とたしなめてくれる。好奇心以上の理由がなければ、その忠告を素直に聞き入れる。興味以上の信念があるのならば、誠意のもとで反論する。ともかく好き勝手やりたいのなら、世の中を強く蔑みすぎては必ず行き詰まる。「もうちょっとこのおもしろさを理解してくれたらいいのにな」というフラストレーションは、まさに世渡りに必要な常識の部分を引き受けてくれる人たちへの敬意と表裏一体の感情なのである。

 

話がいよいよまとまりを失ってきたが、それでもかまわない。予め見えている「まとまり」なんぞに縛られて書いていては、どうしても広がり方が知れている。その一見したところのとりとめのなさ、すきだらけの文章にこそ、新しい世界が多様にひらめく余地がある。がちがちの文章は、広がり方が一方向に偏りがちで、どうしても似たような連想しか引き起こさないであろう。

 

それにこれは自分のブログだ。好き勝手書けばよい。好き勝手書いてまずそうなことがあれば、心ある友人に、連れに、知り合いに、それから楽しんで読んでくださっている方がいらっしゃれば、その方たちの善意にわたしの身をお引き受け願いたい。甘えてみたい。そうやって生きていく方法よりほかに、ぼくはまだ知らない。ぼくはまだ20代。

*1:ちなみにサルミアッキは賞味したことがある。なかなかに強烈な風味で、当時は嚥下するのも一苦労、果てはクラスメイトの水筒にこっそり投入するといういたずらのために消費されてしまったが、いまでは再挑戦してみたい気持ちがある

*2:まーた性欲に言及して申し訳ない

「できないこと」は「劣っていること」とはもう全然ちがうねん

自分自身を鼓舞する意図も込めて、お試しで書いてみる。

 

数学をやっていると、自分の無力さを思い知らされる場面にしばしば出くわす。数学の本を読んでいて、腑に落ちない。取り組んでいる問題がどうしても解けない。講義を聴いてもいまいちわかったという実感を得られない。よし手を動かしたとしても薄暗がりの中で時間にせき立てられながら計算はぎこちなく迷走する。そしてわかったらわかったで、「なんだ、こんなことか」と拍子抜けする。

 

そういったわからなさや難しさは実は楽しむことができる。しかし、条件が悪いと往々にして苦しい劣等感と化してしまう。

 

結論を言うと、劣等感は畢竟「他者の沈黙からくる妄想の産物」だと思う。数学に取り組む上で、わからなくても、間違ってもよい。それは数学がきちんとした学問である何よりの証拠だ。では、どうやって「ままならなさ」が「劣等感」に変わるのか。それは成果を性急に求めたときではないかと思う。

 

ぼくには、そもそも精神的に打ちのめされ、引きこもり、普通の人間関係を尽く喪失していたという背景があった。「普通の」というのは、学校やらなんやらの日常生活で自然とできてきたという意味である。それは精神的なインフラが失われたということに等しかった。人が当たり前に群れているところで自分がどこにも所属していないというのは場合によってかなり苦しい*1

 

数学科には数学の能力で価値が決まるというような一種の集団幻想とも文化ともつかない雰囲気がある。しかし、はっきりとそう言い切った人は見たことがないので、これはぼくが勝手にそう思い込んでいるだけのことかも知れない。ただ確からしいことには数学科の教室が他学部や他学科と較べてもいつも重苦しい空気に満ちていて、これは独立の友人・知り合いとも感覚が一致しているところである。この重苦しさが、たまたまぼくの場合は上述の価値観というかたちをとってあらわれたということなのかも知れない。交流がないのだから当然ではあるが、みなぼくには何も語らない。そして彼らの沈黙という余白は、ネット掲示板の悪口雑言やら神話やら、ツイッターや教室において漏れ聞こえてくる必ずしも悪意のない軽口が、悪いように悪いように補ってしまう。

 

しかし、わからなさ、もどかしさを楽しもうと思ったら、こういう「数学できなければ人にあらず」という価値観はまったくもって都合がよろしくない*2。要するに「わたし」と「数学」がひとつとなって何者も割って入られないような時間が必要である。そこに不安定で得体の知れない他者の存在を許してはならない。

 

そのためには、もう一段階の予防線を張っておくことが望ましい。それは数学を介さずとも互いを認め合えるような人間関係を(できれば複数)持つこと。すなわち、数学徒としてではなく、人間としておつきあいをすること。そうして数学のことで傷つくことなしに、同じ時間をわかちあうのである*3

 

 

無力は大いに結構。大いなるものの前に圧倒されるがよい。そうして人生を実り豊かなものにすればなお結構。ところで、そのせっかくの貴重な経験を卑屈な理論で台無しにする必要はない。一度でも数学に興味を持ち、我が物にせんと欲したことがあるのならば、せせこましいローカルルールなどを持ち出すまでもなく数学と相対するだけの資格はある。

*1:場合によってというのは、それはまあしんどい毎日でも楽しいラッキーな瞬間もなくはないというくらいのほとんど自明な留保である

*2:これは変態性欲の範疇での話ではないので、「人にあらず」でむしろ昂奮がもたらされるのではないかという可能性の考察は割愛。というかそれで欲情できてたらこんな問題は起こってへんやろ。知らんけど。うそかもしれん、ごめん

*3:といってもいつもいつでもそううまくいくわけではないのが人生だ

はじめての図書館

今日は近所の図書館を勉強目的で利用してみた。案外快適で、自宅の床に座って肩を凝らすよりもずっとよい。もともと本を借りるということが苦手で、また勉強は自宅か学校か塾か、まれに喫茶店などでするものという認識だったのだが、このあたりで図書館とお近づきになっておくのも悪くない。

 

行きがけの駄賃に北朝鮮関連の本でも1冊借りて帰ろうと思ったが、利用者カードを発行してもらうために必要な現住所を示した書類が見当たらず、断念した*1

 

今度からは勉強して、飽きたら手近にある本を適当に読むというスタイルでやるとはかどりそう。どうせ予定がなくて家に引きこもるくらいなら、自転車ですぐいける図書館にでかけるほうが気分がいい。

*1:学生証には住所が記載されていない

自己紹介の時季である。はじめこそいかに簡潔さと誠実さとが手をつなぐ点を見いだそうとしたが、どこをどう切り取ればよいのか判然としない。そしてやはりいまの自分の力ではどうしても無理が生じると悟ってからは、不自然でない範囲で自分の情報をなるべく出さずに場の話題を楽しむことにしている。「4回なんです。いまさらですけど活動してみようと思って~」と言っておけば事足りる。

 

自分はどうしても後れている。この後れが何によってもたらされたのか、どういう事情があったのか、言葉でとらえ損ねたストーリーの断片が意識下へと抜け落ちる。手許に残った抜け殻からは到底満足のいく説明は導き出せない。それにそのストーリーの断片をいまさら必死になって拾い集めようとする行為そのものが、いかにも潔さを欠いた言い訳がましい態度のあらわれであるような気がして、結局「自分の無能ゆえ」という、安易で苦い結論をとりあえず採用するよりしかたがない。

 

みんなそれぞれに事情がある。ストーリーがある。それは明白なことだ。ぼくは自身の独自性、特殊性を信じているわけではない。むしろ逆で、自分のストーリーも凡百のうちのひとつに過ぎない、ぼくでなくとも誰が抱えていたって不思議ではない、ありがちな苦労話として手放そうとしている。これまで何度もそうしたつもりなのだが、気づけば部屋の隅に積もっているホコリのごとく意識される。