忙しい

いまバイトからのサークル活動が終わり、帰りの電車の中でこれを書き始めている。いま大学生活4年間で最も忙しい。明日はサークルに加えて院試ゼミがあり、なおかつ明後日のゼミに向けて予習をする必要がある。木曜日は授業と、金曜日のサークル活動で発表をするのでその準備。金曜日はいまふれたサークルの発表。本来は金曜日に院試ゼミがあったが、メンバーの日程調整が難しいため、しばらく振り替えながら様子見。土曜日、日曜日はバイト……。

 

本当に忙しい。もしこのペースが続けばいずれパンクしてしまうのではないかという恐れもなくはない。ところが悪いことばかりではなく、忙しいと必要に迫られて手抜きや引き際を覚えるようになる。自然、効率化を志向し、費用対効果を追求する。すると、先生や先輩に質問する勇気が俄然出てくるし、シフトの変更を淡々と依頼できるようになってくる。「独力でやりきることもできなくはないが、そうすると時間がかかるもの」をより効率よくこなせる他人に投げよう発想へと移行する。これまでひとりで抱え込んで消化不良を起こしていたことに助けを求められるようになる。追い詰められれば裸にだってなる。

 

それはさすがに勘弁してくれという要望があったのでやめときます。

なにもわかっていない

院試ゼミなるものをやった。要するに自分はなにもわかっていない、なにも覚えていないということがわかり、その事実を源泉とする焦りの気持ちがでた。普段から何かと焦りはあって、なかなか心に余裕がないのだが、その焦りの度合いが増した。いよいよ退っ引きならないところまできた。ただ、いっしょにやってくれる仲間がいれば、少しでもその助けになりたいとか、みんなで頑張るんだという気持ちも沸き起こってきたりして、それはもはや孤独な闘いではなくなる。院試突破という遠い1点と、いま現在の点とを結んだ直線上に、できる限り各回でメンバーに迷惑をかけないよう努めるとか、いい感じの解法を見せてみるとか、下手な解法を直してもらうとか、そういう具体的な課題が立ち上がってくる。うまくいかなかったら……まあそれはあまり考えないようにする。やっていくしかない。

 

孤軍奮闘、四面楚歌の心境でやっていくことはもう疲れた。脳を社会的に使ってやらないと、脳の全体が機能不全に陥る。

 

いずれにせよ期間の定まった闘いであるというのが救いか。解法は思いつかず、終わったら免許取ろうとか、旅行に行こうとか、慰安の方法ばかり思いつく。のんきなものですね。

 

恋人とは一体いかにして得るものなのか、改めて問うてみると結構難しい。恋愛にしてみても、なにもわかっていないことがわかる。ぼくは恋愛対象とて所詮人間、されど人間と思って、友達を作るようにして作るというものだと心得ているが、人によって、また求めるものによって、戦略は随分違ってくるので、まずはなにが欲しいのかをよく分析しながら動いてみることなのかなあと無責任に思う。

 

昼からやってる居酒屋でそう語ったら「ムカつく」「お前は殴りたい顔をしている」と言われてボコボコにどつき倒されて、串カツのソースに3回くらい頭を突っ込んでいました。二度漬け禁止やのに。

 

そこやないやろという意見もあります。

発表をした

ようやく初めての発表をした。発表をしたといって、終えたわけではない。まだ残っている。目安として1回につき10ページほど進むようにと言われていたが、その半分に達したか達しなかったか……というところで中断されている。何がさほどに時間を食ったかというと、表の形でワーッと列挙された諸性質の証明である。証明のための道具立てが本文中であまりなされておらず、また自ら創出するだけの力量も持ち合わせていなかったので、不統一な拙いやり方でひとつひとつ丹念に示すほかなかったのだ。2時間でA4用紙表裏10ページ強をやれるわけがない。


もっと短時間のうちに済ませてしまえそうな上手なやり方があろうということが漠然と感じられる。かくも複雑怪奇な議論などはまったく不要であるに違いない。おそらく賢者の通るべき道は存在する。どうせ発表するならば、同じ他人の時間をいただくのであれば、ぼくもその道を拝借して効率的にやりたい。どこかにありそうなのに、どこか、どこかに王道が……。


そういう思いを抱えたままアホの道を奔走せねばならぬこと。クリーナーとペンとをしきりに持ち替え、そのたびに紙の束をばさばさ床に落とし、口内は乾き、心臓は高鳴り、頭はますます混乱し、やがて白板の前で狂人の真似を披露せねばならぬこと。それが、ぼくが直視せねばならない現実というものであることを知った。


ただ、今回の終わりに先生から「細かいところまでよく準備してくれました。すばらしい」と、またメンバーのひとりから「わかりやすかった」と、ほめて(i.e. フォローして)いただいたのが救いとなった。やっぱりぼくは自分で自分を追い詰めるタイプの人間で、時折こうしてひと言ふた言ほめてもらうことで支えられながら生きていかなければならないのだろう。ぼくは孤高の賢者にはなれない。人の群れのなかで、支えられ、支えかえして生きていくしかない。


たかが1回の発表で何悟ってんねんという意見もあります。

はじめてのサークル本活動

サークルというものにはじめて所属してみた。文化系のサークルである。今日が新歓ではない初練習日だった。練習後の食事まで楽しかった。明るくて愉快な人たちがたくさんいて、その場にいて話を聞いているだけでこちらまで感化されてまっすぐになっていくようだった。そして男子校というのはやはり興味深い環境だと改めて感心する。特になりふり構わず、多少危ない橋でも躊躇なく渡り、場を盛り上げていく方向へひたすら加勢していく姿勢は財産だとさえ思う。彼らの嘆ずるところの犠牲となったティーンエイジは必ずや何かしらの形でちゃんと結実しているのだと励ましたくなる。

 

話題はぼくの経歴にも及んだ。ぼく自身もどこかのタイミングで話して楽になりたかったというのもあったと思う。聞かれればよろこんで答えるつもりだった。ところがいざその話題になってみると表現がスライムのごとくまとまらない。「メンヘラ」「共依存」「中退」と乱雑にテクニカルタームパワーワードをちりばめて、そういう風変わりとも病気ともつかない世界もある、とすまし顔で言い切ってしまうのもひとつの手だし、実際に場の性質と聴衆の顔ぶれを見ればそれも十分に解たりえたと思う。会って間もない、身の上もろくに知らぬ複数人を前にして、突如長々と自分語りをぶち上げるだけの勇気や技術は、どのみち持ち合わせていなかった。

 

ここいらでもう一度、今度はぼくと関わりを持ってくれている人たちのために、過去を振り返っておく必要を感じた。この妙ちきりんな人生が、誰かのアミューズメントとなれば、過去のぼくは十分に報われるだろう。

 

時系列にそって書き並べる - The Loving Dead

 

 

ふたりのうちどちらかがぼくに気があるのかなと思っていたら、案の定Mに告白された。 断る理由が特になかったので付き合うことにした。

時系列にそって書き並べる - The Loving Dead

 


断る理由がないから付き合ったというのは、間違ってはいないが、いささかドライすぎる言い回しだ。照れが入っている。実際は大いなる愛を告白されていた。そこには不幸を補う役目を要求する兆しはなく、ただ素朴で純然たる愛情をのみ感じた。ぼく自身これまでの異性へのアプローチは大抵失敗していたこともあり、そこまでの愛情を告白されて、胸を打たれずにはいられなかった。手紙、メール、おまけにバレンタインの生キャラメルという形で裏付けられた熱意をどうして無視することができただろうか。

 

 

冬休み1週間前にいよいよぼくのほうが爆発してしまった。 夜の12時を過ぎても家に帰らないので、親がぼくの携帯に電話を入れてきた。 彼女を放って帰れないのと親から家に帰るよう促されるのとの板挟みにぼくはパニックになり、過呼吸を起こした。

時系列にそって書き並べる - The Loving Dead

 

 

冬休み前の爆発について、パニックを起こしていたのは事実だが、本当は少し演技も入っていて、過呼吸*1は半分意図的に起こした覚えがある。無闇に速く浅く呼吸をすれば意識がカフェインだかアルコールだかを過剰摂取したときのように朦朧とした状態になるので、あとはそれを口実にぐでんとしていればよい。言ってみれば、その場から逃げ出すためにそういう状況をあえて作り出したのであって、いまだにどこか恥じているような節がある。

 

修正すべき点といえばこれくらいで、あとはまあぼくの主観視点での物語としては筋をとらえられている。全く別の話をしているところへ出しゃばってまでする話ではないが、無理に覆い隠してしまうのも気力を要する上に、場に対する不自然を免れないので、なるべく不愉快に聞こえないような工夫だけ加えて話したい(やはり女性には特に気を遣ってしまう)。

 

*1:過呼吸は身体的に酸素を必要とする激しい運動の後に起こるもので、精神的な要因のものは過換気症候群というらしい

かつて一度レールを外れたからといって、開き直って非現実的な道を非現実的な方向へ邁進し続けるわけにもいかない。進路を決するというのはどうも困難を伴う。まず選択肢を寄せ集めて机上に並べるという作業に骨が折れる。どこから手をつけたらよいのやら。院へ行くといって、その実決定を先延ばしにしているだけではないかという疑いもある。問題を解くのは、解けてみると案外楽しい。ある程度解けてまたある程度解けずに解説をみて理解に努めるというくらいの難易度が前進を感じて気持ちがよい。しかし研究ということになるとまた話はがらりと変わってくるのだろう。

 

自由を手放すことが恐ろしいのではない。宙ぶらりんはもう懲りた。そろそろ現実大陸に足をつけたいと思うが、それもやはりどこから手をつけたらよいのやら。人生はどうしてこんなに急ぎ足。

 

院試勉強がしんどい

この目の前の1問1問に心を煩わされたくない。解けたなら解けたなりの、解けなくても解けないなりの経験値が脳裏に沈着する。かなうことならばその様子をただ見守るだけでよい、ということになってほしい。しかし、その経験はぼくをいったいどこへ導くのであろうか。

 

行く道の暗がりを凝視してはわからず、わからねば凝視するのストレスフルな泥沼にとらわれて、いよいよ視野が狭くなり、無為に気力を費やし、気力が尽きれば不安に支配される。こうなるとひとりで脱出するのは難しくなるから、他人との関わり、睡眠などによって負のスパイラルを打ち切る。

 

ぼくは世の中のどこに繋留されているのか。あるいは漂流しているのか。その綱はゴム紐のように伸縮性があるのか、それとも引っ張ったら前触れもなく切れてしまうのか。

 

まとまりがない。しかたない。

現在の人と物事に身をゆだねる

このごろは当時を思い返すにつけて、どれだけの苦難を味わったかよりも、むしろあの頃の自分がどういう哲学で動いていたのかということに意識をクリアに向けられるようになってきている。自省に伴う痛みが薄れ、自分になすすべがなかったと確認する作業にも倦みはじめた。いまとなっては自分を慰めることにほとんど意義を見いだせない。さすがに飽きた。なぜ飽きたかというと、目の前にもっと差し迫った日常と、もっとおもしろい人間関係に、自分自身を分散してゆだねることができるようになったからだと思う。

 

ゼミの予習、サークル活動、友達との宅飲み、連れからかかってくる電話、遠出、読書、バイト……。いまのぼくが生きているこういう場面に単純に打ち込むことが肝要であって、過去の記憶の引力に身を任せてあえて自分自身を目の前の世界から切り離し、孤独に苦しむ必要はないのだという思いに至りつつある。それだけ目の前の人たちや物事に無視しようのない実感が増している。そしていま過去を振り返るとすれば、それは現在の手触りを足がかりとして、よいしょよいしょと霧がかった崖を淡々と攀じ登るようにしてである。痛みや疲労をも第三者として観察しながら、果てに見えるかも知らぬ澄み渡る景色への漠然とした期待をもって、たとい期待通りの景色でなくとも大して失望しないか、その失望をすら楽しむ。疲労感を味わう。節ぶしの痛みをこらえながら、そこに人体の不思議という観念を持ち込んでおもしろがる。

 

そしてこれこそが自分が進んで引き受けたかった人生なのではないかと考えつく。いつぞや、苦難にあってもそれをひとまわり上の世界より見下ろしながら、万人に認められぬとも自ら納得して意味を切り開いていく、そういう人生を望んだことがあったかなかったか。もっと言えば、認められる方は世間に任せて、むしろ認められぬ方にこそ好んで突き進み、自ら耳目を用いてそれを経験せねば気が済まないといった気質はついぞ途切れたことがない。その好事家精神は、卑近な例でいえば、開封の機に恵まれず実家で"塩漬け"にされてしまったシュールストレミングを思い、食通たちのブログを指をしゃぶりながら読んでは、いつの日か、と希望を持ち続けるといったところにもあらわれている*1

 

そう、この感覚。とりあえず通りいっぺんと思われることは他人に任せて、自分は誰もやりたがらない意味不明なことをやる。ぼくの性欲もこの法則に従っている*2。世間はこのうちマジョリティをけなしてまわる輩を称して「逆張り冷笑系」と蔑して呼ぶ向きもある。それは自ら好き好んで逆方向へ突き進むこととは似て非なるものと心得ている(いや、似てすらもいない)。そこに世間への憎しみはない。侮蔑もない。むしろ自分がいまいち興味のわかない分野を担ってくれている分感謝しているくらいのものだ。世の中が当たり前で動いているからこそ、そこに縄の一端を結びつけ、他の一端を自分自身にくくりつけて好き勝手やらせてもらえている。その好き勝手も度が過ぎれば周囲から「それはやめとけ」とたしなめてくれる。好奇心以上の理由がなければ、その忠告を素直に聞き入れる。興味以上の信念があるのならば、誠意のもとで反論する。ともかく好き勝手やりたいのなら、世の中を強く蔑みすぎては必ず行き詰まる。「もうちょっとこのおもしろさを理解してくれたらいいのにな」というフラストレーションは、まさに世渡りに必要な常識の部分を引き受けてくれる人たちへの敬意と表裏一体の感情なのである。

 

話がいよいよまとまりを失ってきたが、それでもかまわない。予め見えている「まとまり」なんぞに縛られて書いていては、どうしても広がり方が知れている。その一見したところのとりとめのなさ、すきだらけの文章にこそ、新しい世界が多様にひらめく余地がある。がちがちの文章は、広がり方が一方向に偏りがちで、どうしても似たような連想しか引き起こさないであろう。

 

それにこれは自分のブログだ。好き勝手書けばよい。好き勝手書いてまずそうなことがあれば、心ある友人に、連れに、知り合いに、それから楽しんで読んでくださっている方がいらっしゃれば、その方たちの善意にわたしの身をお引き受け願いたい。甘えてみたい。そうやって生きていく方法よりほかに、ぼくはまだ知らない。ぼくはまだ20代。

*1:ちなみにサルミアッキは賞味したことがある。なかなかに強烈な風味で、当時は嚥下するのも一苦労、果てはクラスメイトの水筒にこっそり投入するといういたずらのために消費されてしまったが、いまでは再挑戦してみたい気持ちがある

*2:まーた性欲に言及して申し訳ない