6月は晴れの日が多く、今年は梅雨を忘れてそのまま夏になってくれるのかと思ったが、普通に1月おくれでやってきた。雨の中銀行へ払い込みに行って、かえって一息ついてから、受領証を書類に貼り付け、薄っぺらい学業の軌跡を、ボールペンで黒黒と提出書類に書き込んだ。

 

ふすま1枚隔てた隣の部屋のテレビから、北朝鮮がミサイルを発射したというニュースが聞こえてきて。俄然気になったのでしばらくYouTubeをあさっていた。朝鮮語はわからないが、言葉については朝鮮中央通信やら「わが民族同士」の動画をひたすら翻訳して投稿してくれるチャンネルがあるのでそちらにお任せしている。

 

生きているうちに、いつか北朝鮮へ旅行に行って生のコンサートでもきけないものかと思っていたが、この間ワームビアさんがなくなったと聞いてから、すっかり気がそがれてしまっている。モランボン楽団が日本へ公演しにきてくれればいちばん便利だが、その可能性は低いだろうと思う。中国かロシアでの公演に期待するのがいちばん現実的だろうが、2015年の北京公演のドタキャン騒ぎを踏まえると、さほど見込みがあると言えない。

 

音楽は相変わらず「この地の主人たちは話す」をききたおしている。玄松月版とモランボン版とをプレイリストに入れてリピート再生。ノートに歌詞を書きうつして、歌えるようにもなっっている。カラオケで歌える日が来ることを切望する。

笑ってください

エントリの下書きや野暮用の覚書が整理されることなく溜まるばかりの携帯のメモ帳を見返してみた。今年2017年5月31のメモに「朝ごHahn分解し切れず腹痛を起こす」とあった。

 

あ、朝ごHahn分解し切れずに……?

 

あ、朝ごHahn分解?

 

えっ、えっ、あっ……ああ、あはは……。

 

なんと恥ずかしい、関西人としてのセンスを疑われかねないしょうもないギャグである。ただ、当時の自身を強いて弁護するならば、これは本当に事実、即ちこの日確かに普段食べない朝ごはんをとった後、通学途中の電車内で軽い腹痛を起こしていたはずだ。そしてぼくはその痛みを半分ごまかすために、大袈裟に気取った言い方をすれば、痛苦を笑いへと昇華するために、掛詞というレトリックの力を拝借したのである。

 

笑いはぼくたちが知らず識らずのうちに抱えている心の重荷をすっと引き受けてくれる。そうして行く末の遠くて見えない、長い人生の歩みを助けてくれる。

 

笑いは、足りてますか。ここ1週間で、ふっ、とわずかにでも失笑した瞬間はありましたか。周りに合わせて強いて大きな声で笑わなくてもいいんです。自分のペースで笑ってください。場の圧力によってではなく、内から自然とわきおこる笑いを笑ってください。スマイルでいいんです。

 

いよいよ新興宗教じみてきたので、ここでフリック入力を終わる。

わからない

月末なのでそろそろ報告書を書かねばならないが、いかんせんPCの機嫌が悪い。サークルの大会が終わったらひと息つけると思っていたが、人生は続く。外界はぼくを動かすが、ぼくは外界に作用できるだろうか。ひと頃ほど自分で自分をダメになってしまったと強く決めつけてはいないが、その頃自分に押した烙印がときどき疼くように「やっぱあかんのかな」という心のささやきがきこえてくる。何に対してということはない。そんなことはないとわかっているが、この世に共鳴できる対象が存在するのか、あるいはそんないるかわからないようなものに頼ろうとするのが間違っているのか。どうも頭が悪くなっているように感じる。歩いていてもふわふわ漂っているようで、前後不覚というほどでもないが、いまいち実感を欠く。学校から駅までの距離が日によって違う。よくわからない。自分でよくわからないことにしてしまっているのかもしれない。手がかりがほしい。

 

銀の匙を読んでいる。よい。

北朝鮮音楽が天下第一によい

この頃は北朝鮮の音楽にはまっている。北朝鮮ポップスの歌詞にも曲によっていくつかの方向性がある。例えばひたすら個人崇拝に走る歌詞は個人的にあまりおもしろくはないが、人びとが自覚する使命を歌ったものや、万難を斥け明るい未来に邁進する内容は、聴いていて明るい気持ちになり、勇気をもらえるようで好きだ。プロパカンダでも、現実より著しく乖離した理念でも、歌から伝わる情意は本物の手触りがあると感じる。歌を通して社会主義とか個人崇拝を見るとき、ぼくにとっては、それらは「情熱の容れ物」に過ぎない。ぼくの中では、歌の引き起こす情動がプロパカンダという当局の目的を離れて独り歩きしている。

 

特によく聴くのが『この土地の主人たちは話す』で、「私たちはなぜ、社会主義を守るのか」という問いかけに哨兵、溶解工、農家がそれぞれ彼らの運命、生活、幸福であるところの社会主義を銃、鋼鉄、米で守ると話すのだ、という整然とした構成が心地よい。また、「私たちはなぜ、社会主義を守るのか」という深刻な問いかけは幾分サスペンスっぽいメロディになっているところから、返答する部分に明るいメロディに転調するところがクセになる。ニコニコに上がっていたとしたら、「ここすこ」とコメントを投下している。

 

夜も遅いのでろくに見返さず寝る。推敲していないので、北朝鮮ポップスファンでなくては意味不明だと思う。

読書しろ

この間『読書力』(齋藤孝 岩波新書)を読んでから、読書行為へのモチベーションが上がり、まーた預金口座に不相応な出費を書籍に当てている。 

 

でも、ええねん。読書はアイデンティティ形成に役立つねん。父は高校生の頃に読んだLes Misérablesを「現在の価値観、行動原理の原型となった、当時の自分にとって画期的だった作品」としている。そして、『読書力』の著者もまた、そういった作品がいくつかあったという。ぼくは小学生時代にハリー•ポッターシリーズにはどハマりし、それこそハードカバーの本がボロボロになってしまうほど読み込んだ思い出がある。しかし、それは青年期以降の人格形成に資するところにはあまり多くはなさそうだ。もっと「精神の緊張を伴う」文庫本なり、新書なりを幅広く読んでいく必要がある。著者は、ある程度の読書力が身につけるために「文庫本100冊、新書50冊」を目標の目安に提示しているが、少なくともいま目の前にある本棚にしまってある、読了した本の冊数はそれにはまったく及ばない。文庫本、新書を合わせても精々30弱。実家に置いてある文を足せば10ほどは増えるかも知れないが、いずれにせよ計150冊には程遠い。これからもっと楽しく読みまくっていく。それに伴って、ブログの文章がより洗練されていけば幸い。

 

また時間ができたらもう少し気合の入った読書感想文を書いてみようかな、と思っている。このような漠然と自分の経験に結びつけてだらだら書くだけの感想文ではなく、テーマを設けて詳細にフォーカスしながら他の本を文章中に引いたり、内容から得た連想をエッセイ的に書き綴ったり、もっとはてなっぽい、熟れたようなものを書けたらいい。

 

小中高の夏休みの代表的な宿題として課されてきた読書感想文は、「書き出すまではしんどいけれども書き出すとおもしろい宿題」だと感じていた。着手するまでは「本を読む」「原稿用紙に書く」という2段階を踏まなければならない重たいタスクだが、いざ書き出してみると徐々にリズムをつかめてくる。筆が進むにつれ「うおおおお!」と感情がヒートアップし、自分でも普段の生活では思いつかないような主張や言い回しが飛び出したりもする。いまでも人目を気にしなければ、そんな風に没頭して書けたりするかも知れない。出力を意識した読みかたをし、読んだ内容をつかってやることで、読書体験をより充実したものにできればよい。

 

読書を楽しみ、いろいろな考え方に触れ、自己形成に役立てるために必要不可欠なのは生まれ持った才能ではない。読書を重ねて訓練していくことが重要だと著書で強調されている。「読書の"才能"」ではなく『読書"力"』というタイトルになっているということは、その鍛錬可能性を暗に示す、希望に満ちた表現だと思う。

 

まあ希望に満ちてても4桁に近い5桁の口座預金が満ちていかないのが、実際の人生において割り切ろうにも割り切れない、難しいところと言える。お金をください。今月末に確実に3万が飛ぶ。

大会行った/パソコン壊れた

サークルの大会があった。4回試合して、奇跡的に2回勝った。朝は5時半起きで、移動は片道1時間半、夕方までやって、その上打ち上げまでやったので、大変疲れた。

 

パソコンの調子がまたおかしくなった。ハードがヤバそうだというのはわかるが、具体的にどのパーツがというのがわからない。都度適当にホコリを掃除したり、ケーブルを接続しなおしたり、マザーボードを適当にぐねぐねしているうちに、なぜか直っているというケースがここ2年程で急増している。考えてみるとすでに5年以上も使っているので、これを機に買い換えを検討してもよいのかも知れない。

 

パソコンネイティブ世代(i.e. プレ携帯ネイティブ世代)としては、ブログの更新も携帯からだと大変やりづらく感じてしまう。例えばアマゾンのリンクを貼ったり、動画の埋め込みをするのは、断然パソコンからの方がやりやすい。これは携帯においてしかるべきアプリを導入していないせいなのかも知れないが、かといってどのアプリが捗るとか、そういうことを調べて実行する前に「まあええわ」となってしまうのがいけない。

ゴルフした

男子校出身のMくんと、ラウンド経験者のTさんとゴルフの打ちっ放しをした。主にドライバーでまっすぐ飛ばす練習をしていたが、これがなかなかマリオゴルフのようにうまくいかない。全くゲームが違う。あれはリズムゲーであって、ゴルフではない。スパーンと空を切るはずのボールがゴロになったり、浮いたとしても左右へぶれたり、初心者まるだしだった。開き直って楽しんだ。

 

下半身の動きの重要性はゴルフにおいても同様で、腕力任せにブインと吹き飛ばすのではなく、ももや腰のひねりをスイングに生かすことを考えよというアドバイスを得る。それはわかるが、理屈を聞いて即実践できれば苦労はない。左脚が浮いていると言われて左脚に気を使えば腰が疎かになり、腰に気を使うと肘が曲がり、肘を張ろうとすると物の見事に空振りする。

 

ゴルフの後Tさんは帰り、Mくん2人で韓国料理を食べた。たくさんたべて満足した。男子校出身のサークルの先輩が、授業中に露出オナニーをする、廊下を全裸で疾走するといったクラスメイトがいたらしいという話をすると、Mくんは「そうですね。うちにもいましたね」とさも当然のように答え、続けて「ひとりがやりだすとそれに対抗してやりだす者まで出てくる」という話も聞いた。

 

いよいよ男子校には勝つ術がないということがわかってきた。

 

なんの勝負してんねんという異議もあります。