ごめんなさい

善の研究』を読んでいる。戦前は大学生の必読書だったというが、今日ではどうか。

 

 

ぼくは哲学のことはまったく知らないが、これを哲学書としてよりは「いかに生きるべきか」を説く人生論のようなものだと思って読んでいる(タイトルにかなっている)。純粋経験なるものを種に分化・統一を繰り返しより大なるものに至ろうとするのが我々の意識というもので、我々はただそれをのびのび育たせるのだ、善とは自分の中にすでにあるものなのだと、繰り返し励まされているようで元気が出る。かつて死んだことにしてしまった自分の精神活動にも再び信をおいてみようという気にもなる。自殺はいけないと断言してあったのは読んでいて後ろめたくなったが、全体として気分が前向きになる。

 

Wiなんとかdiaによると、著者自身、若い頃より、家族の死、父の事業の失敗による借金、学歴差別、配偶者からの離縁などとあまたの苦難を味わっている苦労人だった。苦境にあって得た思想というのが救いを与えるようなものであったとしても不思議ではない。これを知るまで、「哲学の道」の由来になった有名哲学者だから「どうせエリートぶって、すまし顔でイキって歩いてたんちゃうか、ん?」とまこと勝手な先入観を持って過ごしてきたことをここに告白し、お詫び申し上げつつ就寝する。

北朝鮮レストランに行けばすべてが解決する

北朝鮮国内で生公演をきくのは難しくても、国外の北朝鮮レストランで給仕のお姉さんに歌ってもらうことはできるのではないかと思いついて調べてみた。デイリーNKによると、1曲だいたい1000円弱で歌ってくれるらしい。お姉さん方はみな音楽大国北朝鮮の音大卒のプロであるわけだから、厳しい訓練によって身につけられた専門性への対価だと考えるとこれはまったく安い。

 

北朝鮮レストランが盛況な理由 | DailyNK Japan(デイリーNKジャパン)



実際に店を訪れた人のブログにおける報告を見ていると、客の好みや文化的背景に合わせて中国語の歌やら日本語の歌やらを歌ってくれるらしいので、北朝鮮の歌ならきっと歌ってくれるはず(だし、実際に歌っている動画を見た)。ただし、店内に客が少ないと歌ってくれないこともあるという情報もあったので注意は必要そうだ。歌ってもらうためには最悪の場合、何度も訪れて団体客が来るまで待たなければならないことも想定される。一見さん向け、観光客向けビジネスにつきお値段は高めなので、なるべく空振りは避けたい。

 

ぼくがリクエストするなら、まず「この地の主人たちは話す」は外せない。歌詞もメロディもストライク。それから有名どころにはなるが、「我らは万里馬騎手」やら「走って行こう未来へ」もいい。きくと元気のでる応援歌だ。加えて「轟かせていこう天下第一強国」も捨て難い。ちょっと強そうなお姉さんに「我らを羨め」をつんと歌ってもらうとピリッとしそうだ。古いところでは「我らは革命の継承者」がよくて、これについては「首領様のために、将軍様のために」の部分が「我が党のために、革命のために」に変更されている青峰楽団版の歌詞が気に入っている*1。東京の朝鮮学校(チョソンハッキョ)の学生が、なんと1984年に合唱している動画もあった。


ところで朝鮮学校ではいまどのような音楽教育がなされているのだろうか。もし一般向けに文化祭やら合唱の発表会などを開いているのであれば拝見してみたい。


軽やかな「飛行士の歌」もシンプルで素敵だ。「我らの翼の上に太陽があり、我らの翼の下に平壌がある」だけで(陳腐かも知れないが)詩になってしまうので、青空をゆく飛行機系の歌詞はまことにずるい。いや、大空を舞台とするならばむしろシンプルでこそあるべきか。雲の上に広がる澄んだ世界へは、なるべく心の持ち物を少なくして行かなければならない。

 

(2017/8/23 追記 「太陽」北朝鮮では金日成の象徴に用いられるので、ここでも実際の太陽だけではなく、暗に金日成を意味していると解釈すべきだということに、ニコニコ動画のコメントを見ていて気がついた。してみると、この二重性が詩に厚みをもたらし、東アジア的な味わいが出てくる)


ポエマー性を発露してしまった。元へ戻る。個人的には「攻撃の勢いで」(通称「攻撃戦だ」俗称「コンギョ」)も悪くはないが、これについてはただ歌ってもらうより自分もマイクを握ってデュエットさせてもらいたい、歌ってナンボのカラオケ曲だと認識している。


他にもいろいろ思い出深い曲やらなんやらあるが、今日はもう遅いので寝る。

*1:個人的には、個人崇拝的な要素が混ざっているのはかまわないが、それがテーマとして中央にボンと据えられているとちょっとげんなりする。それよりは人民が主人公として描かれている歌詞の方が好きだ

共感していればそれで満足なのか

 

必ずしもイージーではないが、決して「高尚」なものではなく、ただ単にそれが父のキャラクターに適した、また実際に積み重ねてきて習慣になった生活様式であるというだけのことだ(という趣旨のことを父はいう)。

善の方へむかって歩み続けなければならない - The Loving Dead

 


このように安易に書いてしまったが、記憶違いであるような気がしてきた。たとい記憶違いでなくとも、この「気楽さ」や「単なる習慣」の方面ばかりを強調するのは片手落ちだ。普段の「気楽さ」についてはそれを実現することが「イージーではない」ことと表裏一体であることに触れたが、「高尚」でないと言いっ放しにするのは不誠実な感じがする。「人には立派だと言われることもあるが、自分としては全然当たり前のつもりやねんな」という感覚そのものはわかるつもりだが、ある意味において確かに貴さがあることをあわせて言及すべきだった。


絶えず自己批判が伴う限り、ある習慣とは「その習慣を捨てない選択をし続ける」ということでもある。極端に言えば、ひとつひとつの言動や経験を重ねるたびに、人や本に触れるたびに、これまで保ってきた思考・行動様式を自意識の俎上に載せることを意味する。もちろんそれはしばしば大いに苦痛を伴う(今風に言えば「刺さる」)。何年も、何十年もその困難を乗り越えていまなお残る習慣は、一種試練を耐えた価値ある営みと呼ぶべきではないか。少なくともぼくには真似できないし、それを「自己満足」と切って捨てることは到底できない。


こうして自分の肉親を持ち上げるのは何とも慎みを欠くように思われて微妙な心持ちになる*1が、まあ、ぼくもぼくで「適度に失敗し損ねた親」を持つ淡い贅沢な苦悩がある。当人としてはある程度失敗してくれたつもりなのかもしれないが、いやいや、この歳になってもやっぱりまだお父さんの背中がでかすぎるんやで。


これを反省したのは、本当はまず称賛すべき場面で共感が先立ってしまい、自分に引き寄せた発言をしてしまうということが、父の例ばかりではなくこのごろよくあると自覚しているからだ。ある尊敬に値する言動に触れて、「それはすばらしい考え方/行いだ」と言うべきところを、あたかも自分で同様の体験したかのような錯覚をして「なるほど(それはわかる)」と言ってしまう。これは自他の境界をわきまえずに、反射的に他人の手柄に対して自分の権利を主張しているようなもので、厳にとまでは言わずとも、ほどほどにおさえておかないと礼を失する恐れがある*2


また、相手の話で共感できるところがあったとしても、まずはその人の得た成果である事実をうわべばかりではなく認知の上でもきちんと重んじた方がよい。自分自身に引き寄せて考えることは、自分自身に引き寄せきれない部分を捨象するということでもあるからだ。自分に引き寄せきれない部分を切って捨てたまま放置すれば、それは他者の美徳を矮小化をしてしまっていることにほかならない。せっかく外からやってきたお話を、自分の引き出しの中身と較べて同じだ同じだとよろこんでばかりいては進歩がない。時々はそうやって満足感の方を優先することも必要だけれども、自分に引き寄せきれない部分に学んで「自分はまだまだやな」と謙虚に姿勢を正すこともまた思い出せるようでありたい。


物わかりのよさやら共感力はそればかりでは不十分で、やはり相手を尊重することとセットであることが望ましい。

*1:恥の感覚に近い。しかし、恥の感覚はぼくの専門分野なので、これを敬遠するわけにはいかない。沽券に関わる。ぼくはあえてその恥を味わっている

*2:こういうことを厳密にやりだすと、それはそれでまたぎこちなく、息苦しいコミュニケーションを強いられる。難しいですね

おじさんと若者

ゼミの飲み会があった。ピッチャーでくるビールをなみなみとグラスに注ぎながら、アニメの話、部活の話、海外の文化の話、先生の経歴の話……と話題はうつろう。みな普段はあまりしゃべらない(しゃべるきっかけがない)し、話すのは数学の話ばかりなので、数学に関係のない話をしていると新鮮な感じがする。みなそれぞれに思うところを抱えて生きているのだと改めて知る。学生の孤独感をどうすればよいのかという問いに対して、先生が孤独感は解消し得ないと答えたのが印象的だった。

 

「孤独感を解消するのに、宗教もアリだと思うんです。実際、宗教によって幸せに生きている人がいて、うらやましい。でも、それってやっぱり初心者にはハードルが高い。じゃあ、といったときに哲学って手頃だと思ったんですよね。偉大な哲学者の死生観とか、そういうものを読むと、何となく救われるような感じはある。でもやっぱり自分が何を望んでいるかというと、つまるところは仲間みたいなものがほしい。例えば親は親身になって話を聞いてくれるけど、親に何でも話せるわけじゃない。そういうことを話し合って、わかりあえる仲間がほしいのかな……」

 

「哲学科の人間はよくこういう席をもうけて酒を飲むんですよ。それでお互いに哲学の話を延々とする。しょっちゅう翌朝まで語り明かす。けれども、結局のところやっぱり孤独だね」

 

世界があった。先生の側にも、学生の側にも、それぞれがそれぞれの年だけ築いてきた人生観があった。ひとことではいいおおせない曖昧な長期的感覚を共有しようとする試みそのものが、考えてみると驚きに値する。さらには彼の孤独感が、年長者の口からしぶい情念を引き出したことは興味深かった。おじさんの言葉だ!! 

 

 

青年と中年との人生がふっとふれあって、まもなく別の話題へうつっていった。

 

 

 

ところで、ぼくが先生のことを「おじさん」と呼んでいたとかいう告げ口はしないでください。卒業に関わるかもしれない。

ぼくは共依存ではなかったのかも知れない

ぼくと父との対話の断片。もっと話していたのだけれども、忘れてしまった。

 

共依存的傾向は残念ながら恥じるべき精神性なんかもしれん。うまくすれば役に立つ共感する力かもわからんけど」


「そもそも共依存ってどういうもんやったかな」


ぼくは父が失念していることに半分驚きながら、「まあ、問題のある人間を助けてあげる立場という関係性に依存して抜け出せなくなる状態やろな」と答えた。答えながら、"愛情という名の支配"というフレーズを思い出して心中ますます恥じ入った。


「そういう気質、傾向は、口惜しいけれども恥じてしかるべきもんなんちゃうかという風に思わざるを得んわ。だって、自分では正しいと信じてやってることやのに、当人が意識しないところで実は『支配への欲求』やら『自己肯定感の低さを他人の世話で補おうとするエゴイズム』やらがあるって言われたら、こんなんどうしようもないやん。そういうものを意識的にコントロールできん限り、ぼくは家族やら友達やらに常に迷惑をかけるリスクを背負って生きていかんとあかん。そういう意味でぼくは自分自身のありようを恥じて生きていかねばならない、と言わんとあかん気がする」

 

「お父さんは、違うと思う。例えば、お前の日記の割と早い時期に、寝させてほしいのに寝させてくれない、スカイプを切らせてもらえないこと、勉強やらなんやらあるから早く寝んとあかんことが延々と仔細に書きこんであった。お前の早く就寝しなければならないというあせり、彼女が寝させてくれないというジレンマに苦しんでいたわけやけれども、お前が、彼女のためにばかりではなく、あらゆることを総合して最善を尽くさないといけないという信念をもって行動していたからなんちゃうかと思う。お父さんの知る限り、お前は支配的な関係性への欲求やら依存なんかはないはずや。ただ相手があまりに強い力でしがみつくので、当時高校生やったお前はどうすればええかわからずに困り果てた。過酷すぎた。まあ親やからそう思いたいんかもしれんけど」

 

過去の汚点だと思いこんでいたものの中に、一筋の光明が差したと思った。当時への手がかりをほぼ失ってしまったいまとなっては、ネットを這いずり回っても、往事を共有していないカウンセラーに相談してもたどりつけない、父なしでは至れなかったであろう境地に至ったようだ。一段階救われた。父にとっても苦しかったはずの当時の記憶を、ぼくの都合で蒸し返すことに気後れするのと、ぼくがいまだに当時の苦しみをそのまま引きずっていると誤解させて心配をかけるのではないかという曖昧な不安から切り出せずにいたのだが、やっぱり話してみてよかった。

 

話題はもっともっと広範にわたりながらも*1深いところで相互に連関のある話もしていたが、ぼくにはしっかりとまとめられそうにないので、とりあえずこんなところ。

*1:例えばLes Misérables の話やら、父の人生と我が家の教育方針との関係やら……このあたりは数個前のエントリの元ネタになっている

 

外にいても癖になっている動作を意図せずやってしまう。他人が見れば滑稽に見える可能性が高いとわかっているのに、どうしようもない。周りがみな造作なくこなす「普通」とやらが、どれだけ意識しても、努力しても真似できない。つい余計な言葉が口をついて出てくる。ふと抑えているはずの手癖を繰り返している……。

 

意地が悪く影響力のあるクラスメイトはそれを心なく茶化し、陰湿にいじめる。懸命にはたらくアリを、そう生きるしかない小さな生き物を、幼児が嬉々として追い詰めて潰すようにして。助けを求めて担任に相談してみれば、「それはあなたにも悪いところがあるんじゃない」――わかっている。あいつらがいじめる理由が私のなかにあることくらい。でも、どうしようもないのだ。自分はどうしても「普通」に振る舞えない。そして「普通」に振る舞えないことの代償が、この絶望、生き地獄なのか!!

 

(ぼく個人の日記ではありません)

善の方へむかって歩み続けなければならない

やはりぼくが生きていくためには、いまはやりの、「無理せず現在あるいは未来において生きやすいように生きればいいのだよ」、という指針では不十分だ。一見時代遅れであるようだが、ぼくには「善」という概念が必要だ。


ぼくの父の人生は、「常に善なる方向をむいて着実に歩み続ける」という不断の営みによって構成されていると思う。無論「善」は常に自他の批判にさらされ、都度修正を迫られる。絶対的な善がすでに明確な形で存在しているのではなく、むしろ「善」とはどういうものでありうるかを、実践やら、勉強やらする中で模索しながら、現在の自分に能う限りの「善」を実践し続ける。

 

こう言うと窮屈に聞こえそうだが、実際の感覚としてはむしろ心にやましいところを抱えて生きる必要がない分、むしろ気楽に過ごすことができる。必ずしもイージーではないが、決して「高尚」なものではなく、ただ単にそれが父のキャラクターに適した、また実際に積み重ねてきて習慣になった生活様式であるというだけのことだ(という趣旨のことを父はいう)。


そして、ぼくはそういう風土の中で育ってきた。ぼくは必ずしも父ほどに清廉潔白ではなく、そもそも清廉潔白がどういうものかの漠然としたイメージこそあれ、そうあるための方法がわかっていないのだが、それにしても、「善」というものを批判しながら追求する姿勢は知らず識らずのうちに受け継いでいるようだ。ぼくは、したがって、これを無視した生き方をするのは難しい。それをすると、ぼくには何も残らない。曖昧で、漠然で、暗闇で、よくわからなくて、奥行きがなく、人生に価値を見いだしにくくなる。楽なように、という生き方は、ぼくにとってはかえって絶え間ない鈍痛となる。自分の無理のないように、楽しいようにというのは、ぼくの人生において軸として機能しえない。

 

ぼくは学ばなければならない。ただひたすらに善い人でいようとするばかりではなく、弱肉強食的な、競争的な社会で、また闇の渦巻く世界で、善を目指す自分を守るということを。ともすれば善は食われてしまう。人に食われるのではない。社会の仕組みに、闇に侵されてしまうのだ。そこから「善」の方向へ歩もうとする自分を守らなければならない。ぼくは一度それに失敗したが、だからといって諦めるわけにはいかない。「善」を放棄してしまえば、ぼくにはきっと何も残らない。

 

「善」を目指すことは決して高尚なることではない。むしろ「善」を意識して生きること以外に、生の悦びを知らない*1。それでもそういう「善」を目指す生き方特有の風景やら成果というものもあるだろう。

 

「善」を追求する姿勢が、ぼくの人生の束縛条件であり、また未来に開かれた可能性でもある。

*1:許さんぞ、妙ちきりんな「善」なんかに頼らない生の悦びを知りやがって