今日も距離が入らなかった。突然どうしたと疑問がくるので先に答えておくとp進距離が導入されなかったのを苦にしている。整数論をやるとなったらきっと通る道だそうで、環に距離が入ったら完備化、完備化できたら位相の定義、位相が入ったらおめでとう、アデールやらイデールが産声を上げる(追記 うそにちかい。ただp進距離による位相をもって完備化すればすぐp進はできる。そうではなくって妙ちきりんなことをしたければ逆極限で直積をとって、その上で位相がどうのこうのらしいけれどもよく知らない。自身の弱さ、はかなさを思い知る。受け止める。そして歩き出す)。新たな環がはじまる。父母たる完備化、位相がひととおりではないそうだから、この新しい環も非凡な性質をもって斬新な知見をもたらしてくれるとかくれないとか。この話をどこからきいたか。毎週木曜日に催している代数的整数論集会の相方――おそらく初出なので彼の名前をサーフェスとおく。いつもサーフェスを使って部屋を確保してくれるから――が教えてくれた。

 

そういう話をきくと俄然どういうものか気になる。気になるけれどもぼくはまだ距離すら入れていない。順当にいけば整数論ゼミで先週あたりに出てくる予定だったが、その前に教養として初等整数論をおさらいしておこうということで、急遽おあずけを食うことになった。いや、おさらいといってはまるでかつては勉強したことがあったかのような言いようだが、そうではない。眼帯の下に古傷があるふりをしてもしょうがない。とにかく知ってること知らないことない交ぜに読み進めながら相互法則までたどり着いて、一件落着、ようやく次回くらいからp進できるという運びとなるはずだが、もうすぐ冬休みがはじまってしまう。次回とはいつのことか。ノリと勢いだけが知っている。

 

代数というと、幾何みたいにひねくれた空間でものを扱ったり、解析みたいに脳筋を行使しなくてよい、いわば舌先三寸、道楽の世界だと思いなしていた。自分は正直で筋力もない、浮ついたおっさんみたいなものだから不等式やら連続やら触らずともコンビニで酒とつまみを買ってから滅多に人が来ないところなんでそこでしこたま酒を飲んでからなんとかなるような気がしていた。

 

まあそういう風に生きていかれんことはないが、そのような狭い世間で得られる成果は推して知るべし……ということにようやく気がつき始めた。すると、ぼくひとりがぽつねんと有限な子どもの世界に取り残されたかのような錯覚におちいる。

 

いや、ここでごまかしてはいけない。自らすすんでとどまったという側面を落としてはいけない。道を見失ってから再び歩み始めるまでに時間がかかりすぎた。呆然と立ち尽くし、孤立に悩みこんでしまった。動き出すのにも無料では通らないから原動力を見つけてこないといけないが、それが人との交わりだということに気づくまでに大変な時間を要した。

 

「人との交わりが原動力」よりはもっと解像度を高い観察をしたいところではあるけれども、まあ、これを意識におくだけでも不調であるときにとるべき行動が絞られるからよしとする。一面では超然悠然泰然としていても差し支えないだろうけれども、やっぱり自分も人間であって社会の一部であって他者との関係に支えられて生きているのだから、それをないがしろにしたら中空を見つめて虚無を生きる苦しみを甘受しなくてはならなくなることは記憶にとどめたい。もともと人を毛嫌いしているわけではなく、ただ自分が不器用さがもどかしくなるだけなのだと割り切って、割り切れなくてもとりえあずそういうもんやとのんでおいて、ねっとり主義でやっていくしかない。

 

あ、メリークリスマス。ハッピーホリデー。ホリデーちゃうけどな。

腹立ちぬ

教習所の教官には、可能ならばとなりで運転すること謹んでお断り申し上げたい部類がいくらかいる。大同小異周辺からそのように脅かされてきたから、どんな魔境やと前頭葉に負担をかけて入所からしばらく過ごしてきたが、何のことはない、大抵平成的にあっさりとしかしひとつひとつ丁寧に、さもなくば昭和的に愛想よくおおらかに教えてくれる人ばかりで肩すかしを食ったと思っていた。第1段階修了までは。

 

第2段階に入ってからまだ半分にも到達していないうちに2度ほど(それぞれ別人)閉口せざるを得ない手合いにあたっている。何に閉口するかというと、イライラをわざわざ態度に、言いぐさに、息づかいに、ありとあらゆる手段に訴えてあらわにしてくるのに弱る。仮に何者にも邪魔されることなく対面して話したら話せんことはなかろう。ただ運転中にカリカリと差し迫ってくると困るのである。これも教育の方便であって、後に生きてくると言われたらその理屈はひとまず買うことにするが、実際されてみて愉快なものではない。かえって事故を起こしそうな気にもなる。

 

ひとつひとつのミスを指摘するのはよい。どうしてダメなのかを説明するのも、注意を促すのもそれ自体は大変ありがたい。ただ念のための確認を入れたらいちいちキレた大和田専務のごとく鼻でため息をつきながら声を低くし荒げて理解力を疑うようなひとことを付け加えたり、磯野家当主のごとく周波数の高い怒声を用いて血気盛んにしかしねちっこくミスを復習されるような環境で30分もハンドルを握っていたら、こちらもさすがにじりじりと追い詰められてくる。窮鼠として猫をかむ義務が立ち上がってくる。というか単に腹立ちぬ。さりとて帳簿を投げつけて「うるさいんじゃい」と一転攻勢に持ち込もうとしても失敗に終わることは歴史の証明するところであるし、そもそもそんな胆力が備わっていれば高校中退などせずに済んでいる。

 

とりあえず出任せに「そうですねえ右折のために進路変えたんやからまっすぐ行く理由はないですねえええうん(早口)」とたたみかけておき、さらに機会をみてほんの心持ち勢いよくアクセル・ブレーキペダルを踏み込むくらいのものである。どんな長大なプログラムもどんな長編小説も窮極ひとつの自然数、もう少し推進すれば0と1だけで表現できるようになって久しいこんにちにおいて、ペダルの踏み具合で「う」「る」「せ」「え」「ぞ」の暗号を発することなど雑作もない。すると「ペダルはもう少しやさしく踏んで」と言われても、先ほどまでの嫌みは相当抜けている。オタク特有の早口*1が功を奏したのか、暗号が解読されたのかはわからないが、ひとまず溜飲は下がる。

 

溜飲が下がると、今度はかなしみが上からふってきた。第一に何らかの傷を負ったということそれ自体がかなしかった。責任を自身の伎倆と精神の未熟に帰しても余るものがある。第二にその傷をかばうのに講じた防衛策の浅はかさがかなしかった。やり返すにしても両脚で毅然と立って正正堂堂とではなく、こそこそともったいぶったやり方に出た。第三にこの出来事を通じて少しでも真に受けたところがあるということがかなしかった。振り返ってみると、何もかもしょうもなく感ぜられるし、検討することすら無益でアホらしいような気もわいてくる。この出来事もはなからブログのネタにしてやろうと意気込んで検討したのではなくて、知らぬ間に途中まで考えかけて愚であると気づいたのだが、すでに引っ込みがつかないほど風呂敷が広がっていたのでいっそ日記になるまでこの道を貫徹してやろうと開き直ったまでである。

 

それでも自分自身のこととして引き受けるのなら、しょうもないこと、あほらしいこと、つまらなそうなこと、そこへ考えを巡らすこと自体がやましいようなことをごまかして素知らぬふりをするのではなく、まずはかけらでも正直に受け止めなければならない。どうせ避け続けたところで心の澱になって、ふとぐらついた拍子に舞い上がっては目の隅にちらちら映り込んでくる羽目になる。

*1:あたりを見渡して自身にオタクを自称するだけの資格はもたないと承知の上のことだから、厳密にはオタクの威を拝借したということになる。ついては本脚注をもって謝辞とする

店員にタメ口をきくのは是か非かという問題は近頃ぼくの観測範囲に入ってこないようだけれどもどう解決したのか、していないのか、わからない。正直に申すとこの論争にさほど興味をかき立てられるどころか、両陣営ともと縁のあるところで生活をしているために両者の利害衝突は自分の死活問題に発展しないとも限らない。個別の状況に応じては口を差し挟むこともあるが、一般論については沈黙する。それではデモクラシーに反するから強いても発言せよとおっしゃるならば、是でも非でも場合分けでもご随意にしていただくのが最善とのみ申す。どうせタメ口をきく予定はない。ゆえあって臨機応変作戦変更となればそれだけのこと。歯切れの悪い八方美人であるようだが、関係先に愛想を配って回って今後ともごひいきにくらいはさらりと言ってのけるくらいは社会生活で必要になる。万物流転する世の中である。かつて名うての企業ときこえしかども倒産する、そうでなくとも各種各様ハラスメントの横行が露見する、不正が天下の知るところとなる。栄枯盛衰、一寸先は闇、童貞はあと3年もすれば尊敬の対象になり、喪女はことごとくアラブの石油王と出会うだろう。まあそんな極端を持ち出すまでもなく、敬語が適当であり、タメ口は親しくなってこそというのは理解できる。と同時並行でタメ口が親愛を表示し、敬語が慇懃無礼をはたらくというのも無理はない。礼をとるか情をとるか。都会か田舎か。2ちゃんねる爆サイか。住めば都、自分の居住地以外は尽く闇。両者の間を往還するぼくは根無し草、変節漢、修正主義者、反革命分子の動揺階層である。闇といえば少し前に何でもかんでも闇、闇と称してはやし立てるのが流行ったがいまは落ち着いたようだ。闇とはすなわち知識の埒外のことだから、滑稽を添加して新情報をこなしやすくするのに用いたとしても、無「闇」やたらに使うのはちょっと都合がつかなかろうと思う。

 

自由主義だと言って各人勝手気ままな方角へ理論武装に邁進した結果、党派ができ、各党は互いの領地へミサイルを撃ち込んでいて物騒だ。物騒だからといってどこへも属せねばすなわち孤軍である。なるほど砲火を浴びて蜂の巣にされる心配はないが、いかんせんうらさみしい。国際社会で孤立しているという北朝鮮とも国↑交↓を持つ国はごまんとある。かといって大戦に巻き込まれるのも恐ろしい。人は群れる。位数のでかすぎる群は厄介だ。やむをえず交流を求めて歩き出す。自分にもじゃれ合いのすもうくらいはとりたいという欲求はある。ところが、おい、ちょっとプロレスやろうぜ、と言ったら世の中にはメリケンサックやモーニングスターを標準装備して殴りかかってくる手合いがいる。自分の繰り出した拳がはからずも相手の局部に的中し、さほど気にせず前へ出した土足がいつの間にか相手の不可侵領域に足跡をつけていたりする。それでも人間は丈夫なもので少しのことでは死ぬ気遣いはないから安心したまえといわれても、そうかでは遠慮なくと嚥下して胃に収納するわけにはいかないような思いをしてしまっているから、よっぽど信頼を醸成して十分の成功体験をもって昔の借りを返さないといけない。なに、道は開ける、人を動かす。先ほどの無「闇」のカギ括弧をつけないでも平気でいられるくらいに人とうまくやっていけるようになれるやろ。

 

喧噪の方に人はいるが、もれなく戦争をやっているから静かな方へ探しにいく。確かにおとなしいコミュニティもある。しかしそこへ入ろうとすると、今度は自分の方が喧噪を持ち込んだ厄介者になってしまう。位数の少ない群が閉鎖的というわけではない、ただ既存のリズムに変化がでることで、調和にさざ波が立つことで、先刻までの位数と互いに素であることで、コミュニティ全体へしばらくストレスを与えてしまう。その一時的なストレスの後にはまた新しいリズムと調和が生まれるのであろうが、その集団ストレスに耐えきるまでに神経が息切れする。事前に十分深呼吸をして覚悟を決めてよっしゃと飛び込んでやっと何とかなるかならないかというくらいの大事業だから、パリピのごとくあっち向いてウェイのテンポでひょいひょいとはついてはいかれない。それに娯楽のために金を払って下りてきたダンスフロアにおいていかなる動作をすべきか始終悶悶と悩み通すのはごめんだ。以前それでダンスを練習しようかとも思い立ったが、どのみちひとりでは到底行けそうにないし、かといって誘うべき友人ももっていないので、これは自分に向いた遊びではない、そういう星回りに誕生した存在なのかも知れないとほとんど諦めている。かく述べるとひたすら自己を卑下するようではあるが、これをもって絶対不変の真理と自任しているわけではない。自分に変容の余地と時間と金と体力と精神力があれば、いつでもいかようにも変じてみせるというつもりはある。ダンスフロアで顔に似合わぬキリッキリの踊りを披露できる日がきたら、そのときは是非友人読者各位のお目にかけたい。男と女が股間と尻とを、すりこぎとすり鉢のごとくゴリゴリとやりながらロデオを表現する、あの技術を体得した暁には、「実はぼくも・わたしもやりたかってん」という紳士淑女のみなさまにその極意をよろこんで伝授してしんぜよう。

 

昼に短時間バイトをこなしてから、発表の準備をしたり、その合間休憩にNK-POPを歌ったりしていた。ブログを更新しようとも思ったが、書けないまま画面の前で自分がフリーズするというおなじみのパターンを繰り返していた。書きたいことがないわけではないが、どう書き始めるかがわからない。友達と居酒屋へ行ってから1時間ほど経過したほろよいの定着期に、胸の内からぽろりと出てくる言葉、あれを再現できたらうれしい。積もり積もる話はあるんだから、それを書いてすっきりさせようというもくろみだが、やはり素面のまま「公然と酔っ払う」のは難しいようである。何を今更、普段からわけのわからん陶酔したような文章を散らかしているではないかという意見もあろうが、それはもっともであると恥じ入りながら認める。一旦恥を恥と認識してしまえばこわいものはない。自分の土俵である。もちろん何か思うところにはきっかけがあるのだが、パブリックなネットで具体的な話からはじめるのをはばかって、結局漠然とした論旨不明の雑文ができあがるという仕組みになっている(誰が、とか、どうして、とか、何があって、とか、途中の肉をすべて抜き去って「はあ、好き」という骨だけが残る)。ネット弁士になるのであれ、炎上芸人になるのであれ、堅実アフィリエイターになるのであれ、ポエマーになるのであれ、ブログをやるのならあくまで図太さが必要とみえる。ぼくの場合は日常づかいに運用している図太さでは十分でなく、ちょっとブーストをかけてやらなければならない。例えばアルコールとか眠気(とか頭を曖昧にする薬とか)の力を拝借して、どうせ見ている人なんていない、えいやと一世一代の思い切りをつけることではじめてスタートラインに立てるかどうかという案配である。しかしまあこれも自分。身長が170cmに満たないのも自分(こんなことを書くのですらちょっとした勇気がいる!)。頭がおかしいのも自分。一人称視点の近視眼に凝り固まらずに、半歩下がって後頭部の後ろからゆったり見下ろして、まあそういうこともあるわな、生きてたらな、と受け止める。この受け止めるというのがほとんど唯一とりあえず扱える道具である。

もっともプライベートであるはずの時間でさえ遠慮なく現れて、ぼくを監視し責め苛む者がいる

さんざん日本で生きてきていまさら季節に文句を言ってもせんかたないこととは承知しつつ、いやに寒くなってきた。この時間経過とともに階段状に寒くなっていくところが大変いやらしい。秋の存在に疑問をもつ。こうなるとますます外に出るのに勇気がいる。おかげさまで昔の腑抜け間抜けの生活よりは進歩してこのごろは一応予定はそれなりにあるからそれを元手に寒風に対抗できるだけの装備をなんとか捻出する。玄関ですでに外気の厳しさを感じながら戸を開けると、ああ、耳たぶが凍る。マフラーは静電気がこわくて滅多にしないから頸もいっしょに冷える。呼吸するたび鼻腔や肺が冒される。太陽は愛想よくさんさんと輝くものの温度上昇には寄与しない。笑顔だけかお前は。けれども冬の屋内外のきっつい落差が脳を刺戟し、よどんでいた思考が流れ出す契機になる点は正当に評価しなければならない。その流れ出した思考で先日ぼくは次のようなことをぼんやり振り返ってみた。

 

かつてはよその人と自分との間に差異を見いだしたとき、大抵は興味の対象とするかたいした注意を払わないかのどちらかで、もって苦にするということはあまりなかった。ちがっているということを本質的な理由として害を被ったとは感じなかったから、その差異に対していかなる価値判断を加えるかはもっぱら自己の裁量によると信じていた。どれだけ変態じみた考えを起こそうが、またそれを自分に対して実行しようが、中身が女みたいだろうが、自分がどう感じようが考えようがそこには自由があった。

 

どうもそこに不純物が混入している気がしてならない。なんと表現すればよいのか、罪の意識みたいなものにつきまとわれているような、そういう感覚がある。見られている。監視されている。自慰やら性行為の最中、不意にどうしようもなく責められているような気分に襲われることがある。行為中に抱くイメージに正しいとか間違っているとか、そういう検閲がいちいち入ってきたりする。しかもその検閲の責任者は自分の心なんだからやってられない。うせやろ。セミナーじゃあるまいし突っ込むのはしかるべきものにとどめといてーや。

 

自分らしく振る舞うというのは難しい。自分が誰にとっても受け容れがたいほど変態すぎるかもしれないと仮定するとすなわちどん詰まりだし、実は自分の変態具合はさほどでもないのではないかも知れないと思うと、不当にこれだけいやな思いをしなければならないことについて不平不満を述べたくなる。けれども、そんな文句をいわれる筋合いのある相手はいないから、結局ぐっとのんでしまうよりほかない。寒いからといって北風に苦情を申し立てるくらいにむなしい。それにこんなことをこれだけ思い詰めなければならないことそれ自体がもう情けない。メンタルもろもろやないか。何の用があってさほどに肩の力が入っているのか。たしけて。柔軟さをかえして。

 

実はそんなに悩んでいないということを証明するために、最後にどうでもいいことを書いて終わる。わざわざ宣言するということによって「実は悩んでいる」ことが多少真実であることを明らかにしてしまっているわけだが、そこまでこだわっていたら夜が明ける。仮免許に受かって、路上に出るようになった。よかったわねえ。年明けるまであと何日くらいかしら。金暴力SEX! これがわたしに可能な精一杯のユーモアです。悲惨、パセティックですね。

 

いまふとぼくは風俗通いの、多少しがなさを帯びたおじさんになるべきかもしれないというインスピレーションがふってきた。交際相手との間にはぐくむ愛には含められない不純物のようなやるせなさをなんとかしてもらう場所としての風俗。既婚者がセックスレスになって、あるいは単にマンネリを感じて、その埋め合わせに風俗に通うというのは確かにもっともらしい。けれどもそういうのではなくて、心の中の自分の手では届かないところにたまってくるホコリを取り除く手伝いをしてもらうために、例えば2か月に1度くらいのまばらなペースで通うような、そんなおっさんになってみる価値は見込めそうに思う。交際相手への愛情を滞りないようにするためのクリーニング。交際相手とセックスするときに、不意に襲われるいやな自己検閲とそれによる心身のこわばりを軽減するのに役立つのかどうか、まったくわからないが、まあとりあえず何かアクションを起こしてみなければ、前に進めない。

 

さて、わずかながら希望がもてたところでもう寝よう。明日はまたごく初等的な代数的整数論をする日だ。

中学生男子は互いの股間をまさぐり合う傾向にある

連れにいわれたことがある。「にーさんの中には女の人がすんでる」。まあこういわれると、自分でもある程度たしかにそうかも知れないと納得しているところである。昔から人の体に触れるたびに手つきがいやらしいといわれてきた。

 

はっきり記憶に残っているのは中学生の、クラスメイトと体のさわりあいが頻発してしたあの頃だ。一般に体のさわりあいと書いたが、部位はだいたい決まっていて、触るのは決まって太ももと胸と股間である。タイマンのさわりあいはもちろんあったが(もちろんって何やねん)、やはりメインストリームは複数人でひとりを羽交い締めにしてシャツの上から両胸をさすったり、短パンの裾から内部を侵したりする様式であった。ここで羽交い締めにされている方は、「やめろ、やめーって、変態かよお前ら」などと口走りながら、頬はいつも緩んでいるのである。そういうお約束なのだ。共学の私立ないしは中高一貫進学校に通われていた諸氏にはひょっとするとなじみのない文化かも知れないが、このような「男子生徒同士のふざけあい」風景はいわば「地元の公立中」にはよく見られる光景であると思う。ついでながら申し添えておくと、一部の女子生徒も、男子生徒に劣らず頻繁に、胸のもみ合いなどをしてふざけあっていたような記憶があり、うらやましく思ったような、思わなかったような、そんな気持ちがある。自分が同じ女子生徒として、あんな風に触り合えたらな、といった具合に。

 

ぼくもご多分に漏れず標的になる。我が身体の自主権をあえて侵害する、軽挙妄動の挑発的行為を仕掛けられた以上、その主権者たるぼくはこの道理をわきまえない悪意に満ちた軽率野郎共に対しておとなしく沈黙することは断じてあり得ない。ぼくは即座に正当なる反撃を加える。ぼくの反撃は、周辺各人のごとき平凡なるものではない。全力を尽くして徹底的にいやらしい手つきによって危機感を植え付けるのだ。それによって我が身体の自主権を、自らの力で守るのである。共和国の核兵力が彼らの自治権を担保しているのであれば、ぼくはいやらしい手つきによって身体的自主権を守り通したのである。

 

途中で試みに共和国文学を模倣しようとして時間を食ってしまった。完全にとっちらかった文章になってしまったし、本当は「中学生男子は互いの股間をまさぐり合う傾向にある」ことについて論じる目的はなかったのだが、もう疾うに時間切れになってしまっている(午前3時半)ので寝る。明日は朝早くから仮免の修了検定馬鹿野郎お前俺は受かるぞお前。

 

もしかしなくても、こうやって内面に関することは1日で書いてしまおうとはせずに、じっくりと数日ほどはかけて練り上げたほうがよいことには気づいているが、いかんせん易きに流れてしまうのが、ぼくの短所であるようだ。

それは誰のせいか それは誰の手柄か

実際、自分の人生の成功や失敗はどれくらいまで自分自身の責任であるのだろうか。どこまでを自由の因果として引き受けるべきで、どこから手放してよいものか。

 

例えば、意識の間隙を巧妙にすり抜けてわたしをいましめているように見える呪縛(dead dogmata)、本来わたしが身につけてしかるべき聡明を以てその存在を見破り、自己の力によってそれを打ち破るべきなのかも知れない。また例えば、たとえ苦痛を伴う努力によっても変えようのない、生得の性質、本質的傾向、与えられた環境のもたらす必然や運命のごとく見えるものは、無闇に硬直せず少し方向を変えて到達できるところから眺望すれば実は困難も苦痛もなしに変えてしまうことのできるものなのかも知れない。

 

そういったものは、「やはり自分の引き受けるべきものである」という印象半分、「とはいえ各人がもつ時間的精神的体力的限界を考慮すれば、手放したってよいものだ」という印象半分。どうとも判断がつかない。

 

そして本当に手放してよいものを手放したら、それはいずこへ帰するのか。やっぱり生来の不変的性質か、その失敗の際に近くにいた人たちか、失敗に導いたdogmataを植え付けた環境か。それともたやすく思い至るような近場ではなく、もっとわたしの想像の及ばぬほど遠くのどこかへ漂着するのか。

 

成功も同様に、どこまでが自分の意志や努力の成果であって、どこからが才能や生まれのよさの領分に属するものなのか。

 

あるいはどこへも至らず、「誰の何のせいでもない」という言い回しの示すように、いずことも知れぬ中空を漂流しているのか。なればどうしてその成功とか失敗とか、わたしにとって重要であったり重大であったりする出来事が起こらねばならないのか。成功の歓喜陶酔を味わわせてくれた幸せを誰に感謝し、失敗の辛酸苦汁をなめさせられた鬱憤を何に晴らせばよいのか。