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誠心誠意に生きること

やはり誠心誠意(wholehearted)に生きることが大切だと身にしみて感じる。このところ誠心誠意から外れた生き方が続いてしまっていたように思うのでそう感じるのだ。言動に不適切な裏表を持たせないことと言い換えてもよい。

 

誠心誠意から外れるて何がよくないかというと、自分の考え方や立場が自分の中で一貫性を失うリスクが高まるということである。これは自分で自分自身の思考や感情を追跡するのが極端に困難になってしまい、自分がどうしていまのようになっているのか説明をつける手段を失ってしまうということを意味しうる。日記などをつけていればその過程を追体験することは不可能ではないにせよ、いかんせん複雑であるがゆえに大変な仕事となってしまう。普通の人間は、大変な思いをしてまでいちいち自分の考え方や生き方に合理性を追求しようとするだろうか。

 

自分でも説明に困るような生き方を他人に理解してもらうのは難しい。「行ったと言われれば行ったような気持ちになりますし、行かなかったと言われれば行ったことがないという気持ちになります」(NNMR被告)*1ではダメダメだろう。しかし、日常の些末さに紛れて私も彼を笑えないようなことをしてきたということを告白しなければならない。残念(かつ癪に障ること)ながらいつどこでどのような事実において彼のような態度をとったかはっきりとは記憶にない。ただ、そういう風なことをしたという記憶が残っているだけである。加えて、自分という人間の生き方や考え方が定まらず、心が貧しさ(主に漠然とした悪意や自棄)に蝕まれているということもわかる。そしてこの不安定感や貧しさは先述の通り、誠心誠意からの逸脱に起因していると思っているのである。

 

これは私の高校時代までに得た何のことはない経験則だが、誠心誠意がある程度満たされているライフスタイルにおいては人生はシンプルであり、それゆえ説明が容易で他者の理解や支援も得られやすい。複雑で艱難辛苦にまみれた人生に光を当てること(~文学)に目的をおいているのでなければ、きっとこのほうが「人生はいま風に乗っている」と感じることが増えるにちがいない。先に触れた「誠心誠意から外れると……」の命題はこの「誠心誠意が満たされていると……」の経験則のほぼ裏に当たっている。

 

このエントリはそういう誠心誠意でなかった最近の自分のあり方についての懺悔という意味合いを含んでいるので、ツイッターに投稿して積極的に人の目に触れるようにする。南無三。

 

追記: 正しく自分を慰めること。

*1:NNMRさん語録は日常のコミュニケーションにおいて大いに役立っています。ありがとうございます。