男子校出身者の競争社会とよそ者のぼく

男子校出身の後輩と飲んできた。彼らとの語らいは男子校のノリにあふれていて笑いに事欠かない。ガンダムのコロニーの話題で1時間弱も笑っていられる、そういう空気で何年も過ごしてきたと思うと彼らをうらやまずにはいられない。

 

とはいえ、男子校の環境というのは生徒にメリットを与えてくれるばかりでもないようだ。彼らはことあるごとに自分が人を見下してしまっていると気づくことが多いという。「普段ピースの22mg吸ってると、キャスターみたいなん吸ってる奴見たら『ハッ』とか思いますよ」あるいは「なんかちょっと顔のいい男と女が集まって『俺らイケてる』みたいな雰囲気出してるのいるじゃないですか、あいつらはほんま殺したい」といった具合である。愛煙家でタバコにこだわりがあるような人が銘柄でちょっと優越感に浸るというのは、まあかわいらしいものだろう。しかし、軽蔑を通り越して憎悪にまで煮詰まってしまうと、それを抱えてゆくのはなかなかにしんどいことではないかと推し量られる。彼らが実際こういったどす黒い感情を抱えていることをどれだけ悩んでいるのかはわからないが、少なくともそれを屈折した価値観だととらえているようである。

 

そして人を見下す癖というのは彼ら個人の性質によるというよりも、男子校の気風に由来するところが大きい。みながナメられないように突っ張り合い、互いを組み敷こうとする。教師も教師で「○○大はアホ」「偏差値○○以下はカス」といった調子で大学をこき下すような発言で生徒をあおったりもする。これは何も彼らの出身高校に限った話ではなく、関西において特に進学実績の高い男子校の共通点だという。

 

「人の価値は学歴や偏差値で決まるもんじゃあない」

「みんなちがってみんないい」

「ナンバーワンにならなくてもいい」

多元的な、あるいは"自分らしく"の価値観を標榜する無難な建前――「やさしい世界」をやさしい世界たらしめるルールと言い換えてもよい――は、マッチョな学歴・偏差値至上主義を煙たがる。男子校出身の彼らに内在したこの"古くさい"文化や価値観が何かの拍子で表にしみ出してきて「やさしい世界」のルールに抵触してしまうこともあれば、逆に「やさしい世界」のぬるま湯のような雰囲気が、実は単一の価値観で張り合うことに対する非難を暗に含んでいるということもままある。ひとつの尺度に自身を投げ出して闘うことを時代遅れだと冷笑するか、よくても同情するか。

 

ぼくは彼らが彼らの青春をかけて続けてきた周囲との死闘に頭があがらない。勝利・優越があれば敗北・屈辱があって、自分自身の尊厳をかけた闘いであるほど、両者が意味するところの差は大きい。ぼくの闘争心はあったとしてもそこまで熱いものではなくて、こんな世界に身を投じた経験が少ないから、余計にそう思う。そして彼らは自分がしそうもない体験をしてきているのだから、そこから刺激を受けることもたくさんあると思う。「自分もがんばらなな」という気が起こったりする。

 

制度や教育のあり方をどうこう言いたいわけではない。言えるだけの知識もない。あくまでその土俵で闘ってきたひとりの人間のあり方の問題。譬えるならば戦争から引き揚げてきた軍人に対して、敵国を打ち破ったことへの賞賛や人を殺してきたことへの軽蔑などではなく、自分には到底真似できないししようとも思わない死闘を経験してきたことに対して抱く畏怖のようなものである。そして戦争を知らないぼくにとって彼らの戦争体験談はしばしば興味深いものである。

 

「男子校の雰囲気」は現代社会とマッチしない部分もたくさんあるかもしれない。だからこそ彼らの青春を必要以上に否定してしまわないように気をつけ、認め合うべきところをしっかり見極めていくべきだと思う。彼らはそれだけの経験を積んでいるのだから、そこから得られることは決して少なくはないはずだ。

 

2016/4/11追記:

例えば、同一の物差しで己の威信をかけて競い合った経験は、その後の人生で一事にひたむきに取り組むときに発揮される底力や、他人を素直に評価したり尊敬したりする"スキル"に直結するように思われる。「それはすごいね」という言葉も、修羅をくぐり抜けた者による発言だと重みがグッと増す。人を見下してばかりの人間は信用ならないが、尊敬と軽蔑とを同時に併せ持った人間の価値体系は信頼できるし、そういった人間に何かを語らせるとしばしば興味深い。