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俳句に期待できる効能

久しぶりに俳句や生花の査定番組「プレバト」を見かけた。査定を通してそれぞれの世界を味わうための感性や視点が養えるようでおもしろい。特に俳句の方は花とちがって事前準備がいらないので、やろうと思えば手軽に始められる。以下はある一般的なお茶の間からの感想文です。

 

番組でだめ出しされた句を自分なりに直してみた

 
特待生枠で出演していた東国原さんの句「新茶踏み 鉄の白竜 まっしぐら」の上五があの辛口先生に叩かれていた。なんでも季語「新茶」の意味がわかっていない*1のと、「踏む」の擬人法が下五と重複するのがまずいらしい。
 
上のことを踏まえて自分が直すとしたら 茶園分け 鉄の白竜 まっしぐら となるやろか、などと考えたが、この直し方には思った以上の効果があったらしい。番組を見てなかった連れにぼくが直した句だけ見せたらなんと「それアレ(セックス)のことやろ」と言われた。全く想定していなかったが、言われてみれば確かにそう取れないこともなく*2て、妙に感心した。そう見ると句全体が2重に情景を映し出していることになり、なかなかおもしろい(ほんまか)。
 

俳句はアイデアを効果的にまとめる力を養う

 
俳句は情景を17文字の中にぎゅっと濃縮して単語及びその順序と配置に仮託する芸術だと言える。他の形式の詩歌もその点は同じだろうが、俳句はその中でも特に使える文字数が少ない i.e. 圧縮率が高い。
 
だから俳句を詠んでみようとすると、まず単語のもともと持つ辞書的な意味やすでに熟した表現への依存を止めなければならないことに気づく。そこで定義や慣習から離れて独自表現を用いようとすると、次に自分の伝えたい内容が効果的に伝達されているかが気になってくる。「本当にこれでわかってもらえるのだろうか」「もっといい言葉選びが、並べ方があるのではないか」「何を採用して何を切り捨てるか」……と次々疑問がわいてくる。
 
こういったことを考えるのは、散文においてアイデアを効果的にまとめる力を養うのに役立つように思われる。俳句で培った力によって、文章が情報量を失うことなくスリムにしたり、もっとうまくいけば行間にいてあることの向こう側の世界を見せることもできるだろう。
 
 

俳句を作るのは数学の解答を作る作業と似ている

 
ぼくは数学の解答をなるべくコンパクトにまとめるという作業が好きなのだが、言ってみればこれも要点を切り出して冗長な部分をなるべく捨てるということをしているということだから、俳句を作ることにも似ていると感じている。切り過ぎて失敗することもあるし、残しすぎて汚くなることもある。そうやって試行錯誤を重ねながら煮詰めて煮詰めて、最終的に「これや」と思う答えを提出できると、気持ちがいい。俳句もそういう世界なんだろうなと思うと、俄然身近に感じられる。
 
また俳句を作ってみようか。恥ずかしいからのせへんけど。

*1:「新茶」とは摘み立てのお茶のことで、これを踏むということは製品としてのお茶っ葉を踏みつけるということになるのだそうだ。なるほどなあ

*2:ただし、この場合「鉄の白竜」の「白」が意味をなしにくい。白が竜を修飾する以上、精液の白やティッシュの白にはかかりにくい。色白な人のペニスと考えるのが妥当か