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おばあちゃんがまた入院した

半月ほど前に退院した後、肝臓の数値がまた上がって再入院する流れとなった。今回はより精密な検査を実施したようで、おそらく入院期間はより長くなると思われる。そしてその間ぼくはまたひとりぐらしをすることになる。日々自由であり、家事雑事でさえ楽しんでいる。その一方で、おばあちゃんのことを考えると成り行きが不安であると同時に、ある種の罪悪感に苛まれる。現在手にしている自由の心地よさゆえにいっそうおばあちゃんがこれまでしてくれたことを正当に受け止めてこなかったのではないかという罪悪感である。

 

「いまの生活がこんな楽しいやなんて、これやとおばあちゃんがしてくれてたことがまるでありがたくないことやったみたいやんか!」

 

しかし、これは保護・支援・世話を受ける側の人間のごく標準的な心の動きだといえなくもない。ぼくは高校時代のある出来事から精神的に弱ってしまったことがあって、かなり長い低空飛行の期間を経て最近ようやく再起を果たしたと思っているのだが、思えばその間最も長くそばにいてくれたのはおばあちゃんだった。割とどうしようもなかった時代が終わり、再び立ち上がるという変化に際してあらわれた、いわば第2の反抗期だと思えば、"ぼくはただのわがままで冷酷な心の持ち主である"という結論にとらわれる必要はなくなる。

 

しかし、おばあちゃんの弱った体と心にこんなややこしい若者の事情を押しつけるわけにはいかない。おばあちゃんは、昔次男(ぼくのおじ)のやんちゃぶり*1やいまは亡き夫(ぼくのおじいちゃん)の飲兵衛ぶりに相当手を焼きながらも、肝っ玉で子育てと夫婦生活を全うしたという。その肝っ玉がすっかり年老いて悲鳴を上げているいまに至っては、寄り添う者としてしょうもないエゴを膨らませてアホみたいに感傷に浸ったり、うじうじ悔やんだりしている姿を見せるわけにもいかない。

 

かなり大げさに書きすぎたような気がする。じ、実際そんなシリアスに考えてなんかないんだからね。運筆がたまたまそうなっただけなんだから。

*1:昭和時代のヤンキーとでもいえばよいだろうか