自己実現の手段としての性風俗産業に対して思うこと

経済的な事情とは関係なしに、自己実現の手段として性風俗産業の世界に入るということ。ものすごいことだと思う。家族に裸を見せることすらためらう僕にとって、そんな風に自分のあられもない姿を全世界に向けて開くということは、少なくとも言い訳なしにはできない。仕方なくではなく喜び勇んで性行為を披露すること、性的サービスを提供することってどんなだろうと、自分には超えられそうもない一線の先をつい想像したくなる。

 

性産業に従事することにどういった喜びがありうるのか考えを巡らせてみる。

 


 

  • 自身に内在するリビドーを表現することによって、ありのままでいられる

あらゆる性的欲求は社会的要請からしばしば内側に押し込められ、表現には大きな制約が課せられるが、性産業への従事は、従事者のもつさまざまな性的欲求の表現(それがたとえ演技であったとしても)に社会的な承認を一応は保証してくれる*1。表現してはいけないという抑圧からの解放は幸福感・安堵感をもたらしてくれるに違いない。

 

  • 自身のセックスアピールが遠くまで伝わる

ビジネスにおいてセックスを売り出すことによる性的関係の広がりは、私生活にとどまっている場合とは比べものにならない。自身のセックスアピールを多くの様々な層の人間に届けることができる。特にAVという形式においてはより気軽に手に取られやすく、また物理的な距離を超えるので、このメリットは享受されやすい。

 

  • 必要とされる/人助けができる

性風俗産業は古来より存在し続けた業界である。ビジネスとして成立するということは言うまでもなく供給ばかりでなく需要もあったということだ。性的なサービスを通してそれを必要としている多くの人々の役に立つということは、自身の存在意義、生きる意味を強く与えてくれるだろう。

 

  • 金を稼げる

これについては自己実現以外の要素を多分に含むので省略*2

 


 

 

 正直なところ、自分がもし女で、なおかついま心の中に感じているような障壁がなかったとしたらこういう道を選んでいたかも知れない。もっとも、いま感じている障壁を取っ払ってもいまと同じような志向を持つかどうかはいまいち判然としないところである。

 

自己実現を目指してAV女優・男優あるいは嬢になった人が実際にどれくらいいるのかはわからないが、存在することはほぼ間違いないと思う。ツイッターやブログなどで生き生きと日常生活を発信したり、自身の作品を宣伝する彼らを見ると、僕が心に抱えているコンプレックスなんて本当は大したことではないのかもしれないとも思うし、同時に彼らは持っていて僕には欠けているその自由さに思い至って何となく切ない気持ちにもなる。

 

越えることができない垣根、一方からしか覗き見ることができない世界というのは、憧憬と疎外とを感じさせる。両者をどのようなバランスで感じるかは個人によるだろうが、きっとこれらは比例関係にある。向こう側に惹かれるほどに遠ざけられ、遠ざけられるほどに向こう側への思いは募るばかりなのである。

 

 

*1:個人レベルでは、性産業というだけで眉をひそめる人や、サービスを受けておきながら嬢に説教するジジイもいる

*2:バリバリ稼ぐ自分を夢見て、ということはありえるが、その手段が性産業であるための必要性としてはやはり少し弱いように思われる