ぼくは保護する役目を引き受けることに一度失敗しているわけだけど

"保護する側"と"保護される側"が規定された関係というのは、かねてより多くの人を魅了し、同時に苦しめてもきました。ちまたでは美化されて文芸作品となったり、あるいはやれ毒だの不健全だの共依存だのと叫ばれたり、はたまた育児ブログに悲喜こもごもを綴られたりするという事実がなによりの証拠です。

 

実際、ぼくも高校時代に、図らずも"保護サイド"に陥ってうまく立ち回れず痛い目に遭ったことがありました(下記リンク参照)。

(具体的な出来事: 時系列にそって書き並べる - The Loving Dead)

(総括: 簡潔なまとめ - The Loving Dead)

その結果、リスクを恐れて「自他の境界」「線引き」を強く意識するようになった一方、やはり根のところでは心を接続したい、クールになりきれないところもあったりして、いやはやどうしたものかと数年来(いまだに)考えあぐねています。適切な距離感・ライン設定は"賢い対人スキル"を培うのに不可欠な素養ですが、必要に応じてその垣根を超えてアタックする"情熱の灯火"を消すことはできないとも感じるのです。友人であれ恋人であれ「互いに影響し合いながら付き合い続けること」を諦めきれない。そんな不器用な部分を残さねばならない自分を歯がゆくも思うし、我ながらほほえましくも思うといったところでしょうか*1

 

ただ、"保護サイド"で大失敗をしてから認識した特筆すべき変化として、人間の「自ら考え、動き、生きる」という「自立した存在」という側面にも興味をもつようになったということがあります。だって、外を見てください。あなたが関わることのない人生がたくさん歩いてますよ。すごくないですか*2。正確には、「自立した存在」という側面に着目した時期はあったのですが、長らく保護せねばならない役目を引き受けているうちに周りが見えなくなって、そこから解放されたときにふと顔を上げて改めて新鮮に感じたといったところでしょうか。まあ、みんな苦労しながらもそれなりにやっていってるんやなあ、ということに気がつける程度には視野が回復したといってもよい。

 

ところで、保護-被保護の関係って親子関係のスタート地点そのものじゃないですか。いびつな形で"保護サイド"を体験し、なおかつ失敗しているぼくとしては「果たしてぼくは再びこの保護サイドでやっていくだけの器があるのか」と考えてみたり「子どもはニュートラルな状態で生まれてくるから」と思ってみたりと、アンビバレントな心持ちで子をもうけるということについて空想している次第です。

 

親になるってどんな感じなんですかね。あるいは親にならないっていうのは。

 

 

*1:それにしてはいやにすました物言いですが、これはぼくのなかの中途半端なダンディズムが気取らせているというのが主な理由です

*2:いや、そらそうやろって? そうでしたね、すみません