「一目置かれなくては集団になじめたことにならない」という思い込みについて

承認を所属感を得る手段として使い続けると、承認が得られなくなったら直ちに行き詰まるし、承認してくれる集団の中でしか生きていけなくなり、人間関係の豊かさに影響を及ぼしてしまう。ここに、「承認を所属感を得る手段として使い続ける」とは「その集団で一目置かれることをもって、その集団になじめていると思うこと」あるいは「賞賛・評価されてしかるべき自分の長所が認知されるかどうかで自分がその集団に所属しているかどうかを判断すること」である。

 

この場合は、世の中には承認を前提とせずに人間関係を構築する方法があることを知ることからはじめる。「群れるしか能のない」とは言うが、なにもないのに自身をメンバーだと見なせるのも立派な能力ではないか。突出した外見や能力がなくても、他のために自腹を切ったり、対立しそうなときには折れてみせたりして、仲良くやっていくというのは、実は「プライドにうちかつ」「思慮深さ・注意深さを身につける」「他者理解の姿勢」「メンバーとの親密感・親近感の維持」など、複合的な能力*1を要する高度な営みだったりする。

 

「自分がそこにいる"資格"がないような気がしてしまう」というのは、自分自身やその場にいる人たちを、その"資格"に関する基準によって画一的に規定しているからで、そのような癖は「場になじむ前に長所があらわになりやすい人」が身につけやすいと考えられる。

 

考えてみれば、若いうちはコミュニティというと(ネットを除けば)学校のクラスか部活くらいなもので、それが一新される機会は「幼・保→小→中→高」の各矢印くらいの回数しかない。さらに容姿や成績*2といった情報は秀でていれば簡単に広まりやすいので、自分が集団生活になじむまでに他の生徒から「お前、すごいんだってな」と長所を認知されているということが往々にして起こりうる。こういう状況では「承認と所属は不可分の関係にある」と感じはじめるのも無理のないことかもしれない。

 

「自分は人よりもこういう点で優れている」という自負心そのものが即座に「所属とはすなわち承認なり」という態度につながるわけではないし、人から賞賛を受けたときに浮かれたりすることは人間らしいと言えるが、とにかく賞賛されることが当たり前で、されなければメンバーとして認められていないんだという考え方に陥らないように気をつけたい。

 

 

*1:とはいえ、こういうのは結果論に過ぎなくて、当人に言わせてみれば「適当・なんとなく」くらいの感覚で付き合っていたりするのだろうと思う。しらんけど

*2:勉学・部活問わず