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ぼくはぎりぎりを生きてきた若者だから

まとめ 内観

ぼくは自分自身を大いに愛されて育ってきたと判断している。そしてこの「無償かつ無条件の愛を注がれて育ってきた感」が時々しみ出しすぎて、offensiveになるきらいがあるという自覚がある。まあそういった個人的な悪い癖については都度修正をかけていくということでマウンティング的圧迫を感じさせた方にはひとまずご容赦を被りたい*1。それはそれとして、やはり原則として愛情はそのようなものが大抵好ましいと思っているし、もし自分自身が親になる日が来るのならば、そのような形の愛を注ぐよう努めたいと考えている*2

 

やっぱりぼくはまだ青いんだろうな。自分自身は(財産はないが)幸せな家庭を出自としていると自認していて、またお世辞にも幸せとは形容しがたい家庭も垣間見る機会があって、そんなところでもがき苦しむ大切な人に手をさしのべようとしたらむしろ自分自身が疲弊してしまって、気づいたら生きる意味を見失っていて、それでも両親とひとりの友人はぼくの話相手になってくれて、数年かけて徐々に自分を取り戻したりして、いまではまた大切な人に巡り会ったりして、数年後れで希望の学校に入って人並みに学校の課題で苦労したりなんかして、まあなんとかいまに至っている。大きな転落を経験したものの、ぼくの人生にそこから這い上がるのに必要十分な手がかりが偶然よい案配で配置されていたからこそ数年がかりでなんとかなったというのが正直な感想だ。

 

これでよそにかまわず「ああ、よかったよかった」でやっていくのが大人というものなのかも知れない。しかし、ぼくは数年の回復期間を経てもなお若い。親や家族の役割、勉強・学習といった事柄において、自分にとって「もしもこれが自分のこれまでの人生に入ってきていたら、いまの自分は実現していなかっただろうという危険因子」を感じ取ると、脳が、心が反発する。

 

勉強をする理由ではなく勉強で感じられる意味を――学歴社会と学歴文化をうまく生き抜くために―― - The Loving Deadをほとんど反射的に書きはじめたのは、おそらくそういう事情が関係している。言及先で述べられていたのは、"ぼく個人にとって"そういうたぐいの「危険思想」だった。一旦落ち着いた話を蒸し返し、あまつさえ「危険」などという強い言葉で形容する無礼を今回限りお許し願いたい。繰り返しになるが、たゆまぬ愛情をもって立派に親という役割をこなされているという点は尊敬しすぎることはないし、いずれ来る日に備えて手本として焼き付けておきたいとも思う。あの日、ぼくは誰かを諫めるために書いたのではなく、自分を守ろうとしたナイーブな心が筆を執ったのだ。

 

あのエントリ以降、ずっと胸に引っかかりを感じていた。それは「なんだか自分の出自と感性を鼻にかけた嫌なヤツ」になってしまっていたことへの言い訳だったが、「ちょっとくらい『嫌なヤツ』になってでも守りたいものがあったのです」と弁解して、一応の決着を見たことにする。

 

もっとも、誰かに直接的に指摘・批判を受けたわけではなかったので、ほとんどシャドウボクシングみたいなものではあるのだが。

*1:幸いにもそのような印象を持ったという報告はいまのところないが、それでもたまたま目に触れたという方で傷ついた人がいる可能性は否定できたことにならない

*2:そんな胸算用だけでどうにかなるほど子育ては甘いものとは思っていないが