人の内面を語るとき意識すること

人の思考、感情、思想、習慣、欲望、規範意識……そういうものがおもしろくてたまらない。結ばれずに消える言葉、表現の裏にある心にきちんとした骨を与え、肉付けをし、磨き上げるプロセスは無限の刺激と達成感とをもたらしてくれる。「相互理解への努力」といえば聞こえはよいが、努力という言葉から連想されるような禁欲の態度・姿勢ではなく、むしろ純然たる欲求、それも他者のやわらかい部分を必然的に巻き込むような欲求に基づく行動である。譬えるならば、心のヌードデッサンである。なればその方法には注意を払わなければならない。自分の欲求を優先的に肥大させ、周りにその割を食わせてばかりでは人間関係は立ちゆかない。「そんなことで立ちゆかなくなる人間関係なぞ」と唾棄するのは理屈の上では最も簡単な手のひとつかも知れないが、そんな大ばくちを打てるほどぼくの肝は据わっていない*1

 

したがって、引き際の判断や好奇心の発露をコントロールする方法を考えなければならない。いま思いつくだけ整理してみようと思う。とりあえずこれまでの失敗に鑑みて考えようとしているので、途中で嫌になって「あ~~~~~~……ああああっ!」といってやめてしまうかもしれないが。

 

自分と同じ興味を有しているとは限らない

「人の内面を垣間見たい!! 自分自身という人間にももっともらしい説明を与えてみたい!!」という気持ちはさほどマイナージャンルの好奇心だとは思わない。しかし、その対象や程度、視座・視点は千差万別で、ある人が好む切り込み方が他の人に快いものであるとは限らない。そもそも人間に絶望していて、極力見たくないということもありうる*2。単に気分の問題もあるだろう。そしていま述べたことはすべて流動的で、昨日と今日ですっかり嗜好が変わってしまっているかもしれない。

 

誰かのセンシティブな部分を引き合いに出している

それは自分かもしれないし、目の前の相手かもしれないし、第三者かもしれないが、いずれにせよセンシティブな部分の話をしているという自覚は是非したほうがよい。その上でいかなる方向へ論ずるかは自分の心と相手の様子を見ながら舵取りしていく。同じ話題でも人によって反応はまちまちで、「この話題ならいつでもどこでも安心」ということはない。自分が無邪気に述べたことが相手の耳に届くまでに不純物を吸着したり、相手の脳内で思わぬ化学反応を起こしたりして「ああっ、そう聞こえていたか~!!」と気づかされるケースもある。いくら信頼をおいている相手でも、こういう話題を雑に扱って得るところは少ない*3。デリケートな話では誰しも多かれ少なかれ意識的になる。

 

「自分」「相手」「第三者」のうち、スポットライトを当てるときに最も注意を払ったほうがよいのは「相手」だが、この次に気をつけるべきは「第三者」だと考えている。これは「自分の知らない相手の知り合い」に"刺さった"場合のリスクを考慮してのことである。自分語りの流れで知らない誰かに"刺さって"しまった場合、「自分を意識してのことだから」という言い訳が成り立つが、そうでない場合は気まずいことになる。もちろん、「自分」だからと気を緩めすぎても罰は当たる。

 

意見の不一致に伴う「ぐらぐら感」の制御にはエネルギーが必要

人間観という壮大なテーマや、人の内面という不安定で目に見えないもの、しかも自分も相手も巻き込む話題を語る醍醐味(のひとつ)は、はじめ意見が食い違っていたところを両者がともに歩み寄り、すりあわせ、ついに妥協点を見いだして握手を交わす、そのプロセスにあると感じている*4。ところが意見の相違に「なんか嫌な予感がする」と不安感を覚えたり、ともすれば「それはちゃうやろ」と腹が立ってきたりするかもしれない。それに伴う「ぐらぐら感」が肌に合わない可能性は常に考慮した方がよい。いくら自分のコンディションが最高で「なんぼでも付きおうたるで!!」と意気込んでいても、また相手の居心地の悪さを受け止める自信があっても、舞台へは自ら勇んで立ってもらわなければ、さんざん相手を引きずり回した割に有意義な成果を得られずに終わることとなりかねない。このあたりも好みと体調・気力との相談である。

 

 

 あ~~~~~~……ああああ!!

というわけではないが、夜も遅く普通に疲れてきたのでこの辺にしておく。書くのは簡単だが、振り返ってみると、やはり熱中するほど脳みそから抜け落ちてしまうといわざるを得ない。その自覚は一方で自分を戒め、他方で人間への愛を改めて認識させる。

人を語らうよろこびおじさんです。

*1:もうひとつの手は、逆に人間の中身をのぞく趣味を諦めることだが、これもぼくには難しい

*2:はじめからそういう性質の人もいるだろうが、もともと人間が好きだったけれども嫌な目に遭って人間不信に陥るということだってある

*3:もっともキャラによっては例外もありうる。例えば、普段から「雑さ」で通している人などは、変に丁寧になるとむしろ「なんや急にお前」と気色悪がられるか「風邪でも引いたか」と心配されるかもしれない

*4:といってもこの対話様式はもともと借り物で、いまでは疎遠になってしまった知り合いから学んだものである。彼とぼくはこの様式を明確に意識して話をしていたが、他の人との対話においてはこのストーリーに沿っているわけではない。そもそも苦労してすりあわせるほど不一致があるというケースが少ないからだろうか。むしろ「もやのかかった感情や思考に言葉で説明を与える」という形式が圧倒的多数かもしれない。これはこれでひとつの醍醐味と呼んでよかろう