ヨガの本質は「散漫」にあり

最近気まぐれにYouTubeの動画でお手軽ヨガを見よう見まねでやりはじめた。これがなかなか気持ちよく、手軽でよい気晴らしになってくれている。以前からときどきカジュアルにオーソドックスな瞑想をしていたのだけど、個人的にはヨガの方が合っていると感じる。

 

オーソドックスな瞑想は基本的に体の動きを伴わない。ぼくの場合じっとしていると途中から前頭葉から眉間あたりが緊張してぐわんぐわんしてくる。

 

対してヨガは意識的を向けるべき部分と実際に効く部分とが異なっている。例えば、「あぐらをかいた状態で手を組んで両肘を広げながら上に伸ばす」という動作は肩甲骨周りの筋肉に効く。このときに意識すべきは「が上へすっと伸びる」イメージや「骨盤が地面に根をはるように」安定した感覚であり、実際に痛気持ちいい肩甲骨周りとは別の場所に意識を向けているのである。このことは、一点を凝視するようなしんどさに煩わされることなく、自然体で気持ちのよい感覚に浸りやすくするのに役立っている。

 

瞑想は瞑想で後頭部や足先などに意識を回すことで前述の問題はある程度回避できるので、電車の中などの自由に動くのが難しい場所でのリラックスに依然有用ではある。

 

ところで、 「気晴らし」を英語では distraction と言う。これは文脈によって「注意散漫」や「動揺」などと訳されたりするのだが、これらは「意識が別のところへ向くこと」という点で統一的に説明できる*1。ぼくにとってヨガとはまさに distraction の手段としての役割を果たしてくれているというわけである。

*1:さらに付け加えるならば distractor は、「(センター試験のような)選択式問題における不正解の選択肢」のことなのだが、要するに「解答者の意識を正解から逸らすもの」と解釈できよう