読書妄想文――「日蝕」(平野啓一郎)を読んで (後編)

 

(前編をうけて続く)

 

興奮冷めやらぬままに書き連ねたら長くなったので、前後編と分け、少し日を置いて投稿しようかとも考えたが、もったいぶるほどのものでもないと思い直して、ここで上げてしまうことにする。

 

読書妄想文――「日蝕」(平野啓一郎)を読んで (前編) - The Loving Dead

 

 

結局、これをきっかけにぼくは何かを形にできるかというと、それは難しいということになるのだが、当初の「学生らしい文章を書くためのヒントに」という目論見は、筆舌に尽くしがたい読後感をもってもはや一切重要でなくなった。時間をかけて、正しい方向で努力を重ね、経験を積み上げることこそが、到達点の高さを決定する主たる因子であるという、ごくあたりまえの事実をふと思い出したからだ*1。せっかくなので、ベテラン名文家から新進気鋭の若手作家へのメッセージ、夏目漱石芥川龍之介久米正雄宛書簡でも引いておこう。

 

あせつては不可せん。頭を惡くしては不可せん。根氣づくでお出でなさい。世の中は根氣の前に頭を下げる事を知つてゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか與へて呉れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈です。决して相手を拵らへてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て來ます。さうして吾々を惱ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。

夏目漱石の手紙(芥川龍之介・久米正雄あて)

 

明治文学によくある、知的探究心の熱を帯びた筆致は、やはり読んで追うに興味と憧憬とをかきたてるものがある。博識に支えられた思索の漂う様を詳らかに記述することが、衒学に陥るを免れるのは、そこに作者の「そう記述されねば嘘になる」という確信と情熱と誠実さが宿っているからに他ならない*2

 

自身を顧みると、そんな「ぼくの心のうちに表現されるのを待っているものたちは、このように書かれなければ本当じゃないんだ」と信じきって書く感覚はかねてから漠然ともっていた。それがブログでエゴに任せて書き散らすことを続けるうちに、ますます強く感じられるようになりつつある。熱弁を振るう際の鼻息の荒さに普段は自覚しているものの、一旦そこへはまってしまうと、そのような些事を気にする余裕すら食い尽くされてしまっている*3

 

さて、「日蝕」を読んで得た妄想、もとい感想は以上だが、なぜ「一月物語」に入らないのか。なんのことはない、勉強しなくてはいけないからだ。そもそも、この休暇は本業をサボりすぎたために溜まりに溜まった負債を帳消しにするのに充てられるべき期間であった。「日蝕」へののめり込み方を考えると、このまま「一月物語」に進む選択肢は、明確に誤りとわかる。この本を座右に残すか、それとも他所へ遣ってしまうか、というところから検討したいくらいだ。

 

ただ、そこまでしはじめると「デジタルデトックスの次はリテラチャーデトックスか」と笑われ、またぼくはそれに応えて「依存の多い生涯を送ってきました」とおどけてみせることになり、事態はいよいよ手の施しようがなくなる*4

 

したがって、ぼくは12時間の空きを文芸作品によって埋める試みは失敗に終わったと結論する。余暇のための活動はもっと気楽にできることでないと不可せんね。

 

scribbling.hatenablog.com

*1:いまとなっては浅はかだったが、正直なところ、「日蝕」には、大衆文学とまでは言わないものの、もっと口語に近い調子で「学生たちの織りなす奇怪な物語」のようなものを期待していた。そこで構成や言い回しについてのアイデアなどをちょっとばかり拝借すれば「もしかして自分にも」などと夢見たりしたのだった

*2:断定的に書いたが、これはぼくがそう書きたかった、いや、書かねばならなかったからである。無論、いくら文豪とてその前提は一介の社会人として現実生活に追われる存在であり、期限や編集者に急き立てられる中で書いた作品の中には、一文筆家として忸怩たる思いを抱きながら、妥協せざるを得なかったものもしばしばあったことだろう

*3:平素よりぼくと関わりを持つ各位には、この点においてしばしば申し訳なく思っております。やかましくして、すみません

*4:余談だが、作者の平野氏は少年時代、太宰治を嫌っていたという。太宰作品の主人公が共通してもつ卑近さや、いわば「自虐風自慢」的な態度が肌に合わなかったらしい(平野啓一郎 vol 1. 三島由紀夫から広がっていった文学体験|プロフェッショナルの本棚|ホンシェルジュ|cakes(ケイクス))