また別の平野作品を読んだ。「分人主義」なる思想を明確に意識して書かれているというが、それをぼくは感じることはできても語るを得ないので、置いといて自分勝手な文脈で思いつきを書く。相変わらず鋭くみずみずしい描写で、「あなた、実は登場人物でしょ! 出会ってるでしょ!!」と言いたくなるようなリアリティを感じた。そして、こんなところにまで文学のメスが入っているのかと思うと、少し後ろめたいような感覚におそわれた。
『顔のない裸体たち』
とはいえ、自分が体験したことは、だいたいこれまでに他の誰かによっても体験されていて、観察されていて、描写されているという考えを持たなかったわけではない。自分だけが世界や歴史から切り離された、唯一無二の独自な存在であるという自惚れは、とうに独りよがりな誤解にすぎないと退けられている。中学の頃にハブられたころの話と関連していることだが、思い出すたびほろ苦い大人の味がする。
話が逸れたが、そうではなくて、「ネットの変態ユーザーの精神にハックしてるんじゃないか」と思わせるような生き生きとした筆運びが、残忍なほどによく切れるということである*1。
しかし、インターネットも深いところまでだいぶん光が当たってきているんだなと思うと、感慨深さと空恐ろしさとが渾然として感ぜられる。ツイッターの裏(エロ)アカウントはすでに見られていて、光を当てられている。そしてそれらは必ずしも閉鎖空間での自慰に供されるのみならず、小説やエッセイの種として作家たちに取り込まれて、暴かれているのだということを意識せずにはいられない。クリンジーである。
観察されているという生々しい感覚はあらゆる側面に広がる。恋愛工学も、承認欲求の権化も、ああ、もしかしてぼくのPCジャンキー生活もだろうか。九分九厘そんなわけはないのだが、そう考えるとなぜかむしろゾクゾクするような気もする。思い返せば、小中を思い出しても、生徒会などを引き受けて割と楽しんでいたような覚えがある。
他人の視線というものを集めたり集めなかったりした経験を総合すると、ぼくは「辺りを照らすサーチライトには怯え、自分めがけて直射するサーチライトには大胆になる」ようなところがあるんだろうなあ。
各位におかれましては、インターネットの利用の仕方には気をつけてください。お天道様も仏様も見ています。さらに悪いことには文筆家も、警察も。しかし、その視線をすら楽しむ変態には、ぼくも一目置きます。一億総監視を手玉にとる度胸と感性は、また面白い素材になるのかも知れませんね。*2