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低賃金バイトにみる「人生を生きる」ということ

昨日のエントリで触れた、賃金の安い方のバイトのシフトに入っていた。ぼくの仕事ぶりについては恥ずかしながらこれ以上付け加えることはないので、バイト先の後輩(以下Aさん)のお話。


Aさんは、書き言葉でものを書くことがあまり得意ではない。それは「書くのは苦手だ」という人の意味するところの「文章構成力の不足」や「思考内容-表現内容間の齟齬」といった文章単位の話ではなく、正書法に則った「わ」と「は」の書き分けなどといった文節ないし文単位の話である。「○○わ××やって、Zさんがゆうたはりました」(○○は××であると、Zさんがおっしゃっていました/言っていました)のような方言混じりの話し言葉を「音訳」したようなメモ書きや報告があれば、それはAさんによって書かれたものだと直ちに察せられるということだ。社外向け文書ならいざ知らず、基本的には社内の人間の目にしか触れない業務連絡ばかりなので、誰かが差し出がましく訂正するといった様子はない。

 

Aさんは、実によくはたらく。ただのはたらきものではなく、クリエイティブに、主体的にはたらく。ぼくがいかにうまく手を抜いて掃除をするかむなしく企んでいる間に、Aさんは備品の手入れをし、破れた壁紙にチェックのかわいらしいパッチを当て、裂けたぬいぐるみを縫い直し、掲示物に季節感あふれるイラストを添えてしまう。連絡用のメモ書きなどの社内向け文書においても、シンプルながら整った色つきの囲みや下線などで、見やすくなる工夫を施してあることも多い。

 

こういった工夫について、以前「すごいですね。ようしはるんですか、こういうこと」と問うた。「好きなんですよ、こういうの。逆に、家庭科の実技以外全然ダメですけどね」とニコニコしながら答えてくれた。

 

Aさんは、本当にこの仕事に向いているんだろうなと思う。

 

Aさんは、小学生のころから学校を休みがちで、中学生のあるときにぱったり行かなくなり、そのまま高校にも進学することもなく、いわく数年ほど「家でだらだら過ごして」いたという。裁縫やら装飾は、この時期から近所に住む親戚の子どもたちとの遊びを通じて自然と上達したらしい。いまの仕事を通じてぼくの後輩になったのが、去年の夏のことだった。これがはじめてのバイト、はじめての社会経験だと言っていた。

 

この職場の従業員のほとんどは入社時期から言うと後輩だ。大抵の後輩に、ぼくはユルユルガバガバな先輩として接している。「そこそこでええんですよ~」というだけのおいしい役回りである。そんなぼくに、Aさんは「今日暇過ぎてほんまだるい~」と声をかける。ぼくは「や~ほんまやな~。ラインかツイッターでもチェックしといてください」などと返す。その実、ぼくはAさんがこの仕事にどれだけ積極的に取り組んでいるかを普段から感じ取っているから、このようなやりとりのたびに内心恥じ入っている。

 

ぼくは昨日のエントリでこの仕事をmenialと形容した。たしかに最低限の要求はmenialだ。金の勘定と、簡単なレジ操作と、マニュアル化された客対応のしかたさえ覚えればすぐ戦力になれる。簿記検定もTOEICも、普通免許証さえも必要ない。しかし、やる気とセンスがあればAさんのようにはたらくこともできる。賃金には一切反映されないが。

 

なるほど政府の意向に沿った形で普通教育を受けきったわけではないし、現代の世俗的な価値観で絡め取ってしまえば、Aさんの軌跡は「不登校からの低時給バイト」なのかも知れない。しかし、ぼくは裁縫や装飾をこなすAさんの中に、生きるということを、安易に時代や社会の潮流に身をゆだねるのではなく、かといって反抗するのでもなく、高望みするわけでも、卑屈になるのでもなく、ただこうあるよりほかないという自分のあり方で、すなわち庶民として<生きるという手仕事> *1のうちにとらえようとする姿を認めるのだ……というのは生きた人間に対してあまりに穿ちすぎた見方であろうか*2

 

ぼくもそろそろ、はるか遠い未来に目指すべき自己像ではなく、いまある自分の両手をじっと見つめ、この手は何ができて、どう使われねばならないのかを、問うてやらねばならない時期にさしかかっているような気もする。

 

 

まーた自意識こじらせたエントリを書いてしもた。

*1:http://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/11/k01-32p.pdf 第1問 『失われた時代』(長田弘)

*2:Aさんの、より「ちがった」未来の可能性を否定したいわけではない。生きている限り、この先どんなライフイベントを経験することになるかはわからない。ただ、少なくとも現時点において、ぼくよりは着実に「Aさんは自分の生きなければならない人生を生きている」と感じるのである