今日も何もないすばらしい1日だった。いや、本当はもう少し書くことはあっただろうが、認知症について考えすぎて、忘れてしまった。
『痴呆を生きるということ』という本を読んでいた。学校附属の書店で古書フェアをやっているときに手に入れたやや古い本なので、認知症・統合失調症ではなく痴呆・精神分裂病という名称が用いられている*1。まだ読み終えてはいないが、感銘を受けた部分を引いて残しておきたい。
第3章「痴呆を生きるこころのありか」第4節「重度痴呆」で、著者は「偽会話」についてふれる。「今日はええ天気ですなあ」「あら~もう食べましてん」「そうですか。うちの孫も、部屋に引きこもってばっかりで……」といった具合に、耳の遠くなった年寄りにありがちな、めいめいが好き勝手なことを言って、めいめいに納得する、意味不明な会話に近い*2。認知症が進むと、当然会話はますます混迷していく。しかし、この筋の通らない交流でも、認知症をもつ者同士は納得し、ときには介護者をして「負けた」と思わしむるほどの効果をもたらすという。
ここには痴呆という病を得た者同士でなければとうてい達成できないような、理と言葉の世界を超えた直接的な交わりがある、と私には思える。ひととひととの関係性が原初的な姿で、いっさいの虚飾を脱ぎ捨ててそこにある、とでもいったらよいだろうか。
ぼくには、著者のこの言葉に「認知症は死ぬまで不可逆的に進行する絶望の病気である」という一方的な悲観を救ってくれるだけのポテンシャルを聞き取った。認知症は、ただ記憶や能力を喪失していくだけの絶望の病気ではない。認知症になってはじめて得ることができる体験、認知機能という手枷足枷から解き放たれた者同士によってのみ可能な裸の魂のふれあいがあるのだ、と。いかにも心強いメッセージではないか。
これに勇気づけられたので、自分用に残しておく次第。
いい加減な結びだが、これ以上どうあがいてもウソにしかならないような気がしたので、これで、おわり。人生すべて思い通りに事が運んで、やりたいようにやって、死にたいときに死ねるものではない。