「できないこと」は「劣っていること」とはもう全然ちがうねん

自分自身を鼓舞する意図も込めて、お試しで書いてみる。

 

数学をやっていると、自分の無力さを思い知らされる場面にしばしば出くわす。数学の本を読んでいて、腑に落ちない。取り組んでいる問題がどうしても解けない。講義を聴いてもいまいちわかったという実感を得られない。よし手を動かしたとしても薄暗がりの中で時間にせき立てられながら計算はぎこちなく迷走する。そしてわかったらわかったで、「なんだ、こんなことか」と拍子抜けする。

 

そういったわからなさや難しさは実は楽しむことができる。しかし、条件が悪いと往々にして苦しい劣等感と化してしまう。

 

結論を言うと、劣等感は畢竟「他者の沈黙からくる妄想の産物」だと思う。数学に取り組む上で、わからなくても、間違ってもよい。それは数学がきちんとした学問である何よりの証拠だ。では、どうやって「ままならなさ」が「劣等感」に変わるのか。それは成果を性急に求めたときではないかと思う。

 

ぼくには、そもそも精神的に打ちのめされ、引きこもり、普通の人間関係を尽く喪失していたという背景があった。「普通の」というのは、学校やらなんやらの日常生活で自然とできてきたという意味である。それは精神的なインフラが失われたということに等しかった。人が当たり前に群れているところで自分がどこにも所属していないというのは場合によってかなり苦しい*1

 

数学科には数学の能力で価値が決まるというような一種の集団幻想とも文化ともつかない雰囲気がある。しかし、はっきりとそう言い切った人は見たことがないので、これはぼくが勝手にそう思い込んでいるだけのことかも知れない。ただ確からしいことには数学科の教室が他学部や他学科と較べてもいつも重苦しい空気に満ちていて、これは独立の友人・知り合いとも感覚が一致しているところである。この重苦しさが、たまたまぼくの場合は上述の価値観というかたちをとってあらわれたということなのかも知れない。交流がないのだから当然ではあるが、みなぼくには何も語らない。そして彼らの沈黙という余白は、ネット掲示板の悪口雑言やら神話やら、ツイッターや教室において漏れ聞こえてくる必ずしも悪意のない軽口が、悪いように悪いように補ってしまう。

 

しかし、わからなさ、もどかしさを楽しもうと思ったら、こういう「数学できなければ人にあらず」という価値観はまったくもって都合がよろしくない*2。要するに「わたし」と「数学」がひとつとなって何者も割って入られないような時間が必要である。そこに不安定で得体の知れない他者の存在を許してはならない。

 

そのためには、もう一段階の予防線を張っておくことが望ましい。それは数学を介さずとも互いを認め合えるような人間関係を(できれば複数)持つこと。すなわち、数学徒としてではなく、人間としておつきあいをすること。そうして数学のことで傷つくことなしに、同じ時間をわかちあうのである*3

 

 

無力は大いに結構。大いなるものの前に圧倒されるがよい。そうして人生を実り豊かなものにすればなお結構。ところで、そのせっかくの貴重な経験を卑屈な理論で台無しにする必要はない。一度でも数学に興味を持ち、我が物にせんと欲したことがあるのならば、せせこましいローカルルールなどを持ち出すまでもなく数学と相対するだけの資格はある。

*1:場合によってというのは、それはまあしんどい毎日でも楽しいラッキーな瞬間もなくはないというくらいのほとんど自明な留保である

*2:これは変態性欲の範疇での話ではないので、「人にあらず」でむしろ昂奮がもたらされるのではないかという可能性の考察は割愛。というかそれで欲情できてたらこんな問題は起こってへんやろ。知らんけど。うそかもしれん、ごめん

*3:といってもいつもいつでもそううまくいくわけではないのが人生だ