現在の人と物事に身をゆだねる

このごろは当時を思い返すにつけて、どれだけの苦難を味わったかよりも、むしろあの頃の自分がどういう哲学で動いていたのかということに意識をクリアに向けられるようになってきている。自省に伴う痛みが薄れ、自分になすすべがなかったと確認する作業にも倦みはじめた。いまとなっては自分を慰めることにほとんど意義を見いだせない。さすがに飽きた。なぜ飽きたかというと、目の前にもっと差し迫った日常と、もっとおもしろい人間関係に、自分自身を分散してゆだねることができるようになったからだと思う。

 

ゼミの予習、サークル活動、友達との宅飲み、連れからかかってくる電話、遠出、読書、バイト……。いまのぼくが生きているこういう場面に単純に打ち込むことが肝要であって、過去の記憶の引力に身を任せてあえて自分自身を目の前の世界から切り離し、孤独に苦しむ必要はないのだという思いに至りつつある。それだけ目の前の人たちや物事に無視しようのない実感が増している。そしていま過去を振り返るとすれば、それは現在の手触りを足がかりとして、よいしょよいしょと霧がかった崖を淡々と攀じ登るようにしてである。痛みや疲労をも第三者として観察しながら、果てに見えるかも知らぬ澄み渡る景色への漠然とした期待をもって、たとい期待通りの景色でなくとも大して失望しないか、その失望をすら楽しむ。疲労感を味わう。節ぶしの痛みをこらえながら、そこに人体の不思議という観念を持ち込んでおもしろがる。

 

そしてこれこそが自分が進んで引き受けたかった人生なのではないかと考えつく。いつぞや、苦難にあってもそれをひとまわり上の世界より見下ろしながら、万人に認められぬとも自ら納得して意味を切り開いていく、そういう人生を望んだことがあったかなかったか。もっと言えば、認められる方は世間に任せて、むしろ認められぬ方にこそ好んで突き進み、自ら耳目を用いてそれを経験せねば気が済まないといった気質はついぞ途切れたことがない。その好事家精神は、卑近な例でいえば、開封の機に恵まれず実家で"塩漬け"にされてしまったシュールストレミングを思い、食通たちのブログを指をしゃぶりながら読んでは、いつの日か、と希望を持ち続けるといったところにもあらわれている*1

 

そう、この感覚。とりあえず通りいっぺんと思われることは他人に任せて、自分は誰もやりたがらない意味不明なことをやる。ぼくの性欲もこの法則に従っている*2。世間はこのうちマジョリティをけなしてまわる輩を称して「逆張り冷笑系」と蔑して呼ぶ向きもある。それは自ら好き好んで逆方向へ突き進むこととは似て非なるものと心得ている(いや、似てすらもいない)。そこに世間への憎しみはない。侮蔑もない。むしろ自分がいまいち興味のわかない分野を担ってくれている分感謝しているくらいのものだ。世の中が当たり前で動いているからこそ、そこに縄の一端を結びつけ、他の一端を自分自身にくくりつけて好き勝手やらせてもらえている。その好き勝手も度が過ぎれば周囲から「それはやめとけ」とたしなめてくれる。好奇心以上の理由がなければ、その忠告を素直に聞き入れる。興味以上の信念があるのならば、誠意のもとで反論する。ともかく好き勝手やりたいのなら、世の中を強く蔑みすぎては必ず行き詰まる。「もうちょっとこのおもしろさを理解してくれたらいいのにな」というフラストレーションは、まさに世渡りに必要な常識の部分を引き受けてくれる人たちへの敬意と表裏一体の感情なのである。

 

話がいよいよまとまりを失ってきたが、それでもかまわない。予め見えている「まとまり」なんぞに縛られて書いていては、どうしても広がり方が知れている。その一見したところのとりとめのなさ、すきだらけの文章にこそ、新しい世界が多様にひらめく余地がある。がちがちの文章は、広がり方が一方向に偏りがちで、どうしても似たような連想しか引き起こさないであろう。

 

それにこれは自分のブログだ。好き勝手書けばよい。好き勝手書いてまずそうなことがあれば、心ある友人に、連れに、知り合いに、それから楽しんで読んでくださっている方がいらっしゃれば、その方たちの善意にわたしの身をお引き受け願いたい。甘えてみたい。そうやって生きていく方法よりほかに、ぼくはまだ知らない。ぼくはまだ20代。

*1:ちなみにサルミアッキは賞味したことがある。なかなかに強烈な風味で、当時は嚥下するのも一苦労、果てはクラスメイトの水筒にこっそり投入するといういたずらのために消費されてしまったが、いまでは再挑戦してみたい気持ちがある

*2:まーた性欲に言及して申し訳ない