「孤独の作業」に風穴を開けてね

今日のサークル活動中にGeorge Orwell1984の話が出てきた。まさにいま読んでいる本を誰かが好意的に触れてくれることはうれしい。競技の準備時間な中での1分ほどの雑談だったが、ぼくが自宅でひとりで没入している世界が、何気ない会話で引き合いに出してもらえることに、ささやかなよろこびがあった。ぼく以外にも同じ本を興味深く読んでる人がいる。そこに、孤独の作業をするわたしと、人と関わるわたしとの接点が生まれる。そのとき、その孤独な作業はもはやわたしだけのものではなく、すでに共有された取り組みである。

 

勉強は孤独であるものだと耳にすることがある。ぼくはあまり注意深い人間ではないので、試験勉強という特殊な目的を持つ勉強によく取り組むためのヒントなのか、もっと広く一般の勉強についてのべき論なのかは知らないが、まあぼくは孤独は大抵の場合、毒にこそなれ、薬にはならないのではないかと思う。大抵の場合というのは、あらゆる人づき合いを棄てて、この分野で成就大成してやろういうほどの悲壮な決意を固める、例えば関口存男のような少数派の非凡なるパーソナリティを持った人たちを除いて、ということだ。自分にとって意味のある人間関係、心の支えになっている人をあえて拒んでまでひとつのことを貫き通す行為は、孤高と称すべきものであって、必ずしも高尚で見習うべき心構えというわけではない。自分が安定して継続できるやりかたを見つけて、それでやっていけば言うことはない。そして多くの場合(?)、その継続可能なやり方は、孤独を突き詰め深めていく道ではなく、孤独な作業に一点の風穴を開けて、外部の清風を与えてやることだったり、「孤独の作業をするわたし」と「人づき合いをするわたし」とを接続してやるといったことだろうと思う。

 

おやすみ。おやすみの時間ちゃうやろという意見もある。