善の方へむかって歩み続けなければならない

やはりぼくが生きていくためには、いまはやりの、「無理せず現在あるいは未来において生きやすいように生きればいいのだよ」、という指針では不十分だ。一見時代遅れであるようだが、ぼくには「善」という概念が必要だ。


ぼくの父の人生は、「常に善なる方向をむいて着実に歩み続ける」という不断の営みによって構成されていると思う。無論「善」は常に自他の批判にさらされ、都度修正を迫られる。絶対的な善がすでに明確な形で存在しているのではなく、むしろ「善」とはどういうものでありうるかを、実践やら、勉強やらする中で模索しながら、現在の自分に能う限りの「善」を実践し続ける。

 

こう言うと窮屈に聞こえそうだが、実際の感覚としてはむしろ心にやましいところを抱えて生きる必要がない分、むしろ気楽に過ごすことができる。必ずしもイージーではないが、決して「高尚」なものではなく、ただ単にそれが父のキャラクターに適した、また実際に積み重ねてきて習慣になった生活様式であるというだけのことだ(という趣旨のことを父はいう)。


そして、ぼくはそういう風土の中で育ってきた。ぼくは必ずしも父ほどに清廉潔白ではなく、そもそも清廉潔白がどういうものかの漠然としたイメージこそあれ、そうあるための方法がわかっていないのだが、それにしても、「善」というものを批判しながら追求する姿勢は知らず識らずのうちに受け継いでいるようだ。ぼくは、したがって、これを無視した生き方をするのは難しい。それをすると、ぼくには何も残らない。曖昧で、漠然で、暗闇で、よくわからなくて、奥行きがなく、人生に価値を見いだしにくくなる。楽なように、という生き方は、ぼくにとってはかえって絶え間ない鈍痛となる。自分の無理のないように、楽しいようにというのは、ぼくの人生において軸として機能しえない。

 

ぼくは学ばなければならない。ただひたすらに善い人でいようとするばかりではなく、弱肉強食的な、競争的な社会で、また闇の渦巻く世界で、善を目指す自分を守るということを。ともすれば善は食われてしまう。人に食われるのではない。社会の仕組みに、闇に侵されてしまうのだ。そこから「善」の方向へ歩もうとする自分を守らなければならない。ぼくは一度それに失敗したが、だからといって諦めるわけにはいかない。「善」を放棄してしまえば、ぼくにはきっと何も残らない。

 

「善」を目指すことは決して高尚なることではない。むしろ「善」を意識して生きること以外に、生の悦びを知らない*1。それでもそういう「善」を目指す生き方特有の風景やら成果というものもあるだろう。

 

「善」を追求する姿勢が、ぼくの人生の束縛条件であり、また未来に開かれた可能性でもある。

*1:許さんぞ、妙ちきりんな「善」なんかに頼らない生の悦びを知りやがって