ぼくは共依存ではなかったのかも知れない

ぼくと父との対話の断片。もっと話していたのだけれども、忘れてしまった。

 

共依存的傾向は残念ながら恥じるべき精神性なんかもしれん。うまくすれば役に立つ共感する力かもわからんけど」


「そもそも共依存ってどういうもんやったかな」


ぼくは父が失念していることに半分驚きながら、「まあ、問題のある人間を助けてあげる立場という関係性に依存して抜け出せなくなる状態やろな」と答えた。答えながら、"愛情という名の支配"というフレーズを思い出して心中ますます恥じ入った。


「そういう気質、傾向は、口惜しいけれども恥じてしかるべきもんなんちゃうかという風に思わざるを得んわ。だって、自分では正しいと信じてやってることやのに、当人が意識しないところで実は『支配への欲求』やら『自己肯定感の低さを他人の世話で補おうとするエゴイズム』やらがあるって言われたら、こんなんどうしようもないやん。そういうものを意識的にコントロールできん限り、ぼくは家族やら友達やらに常に迷惑をかけるリスクを背負って生きていかんとあかん。そういう意味でぼくは自分自身のありようを恥じて生きていかねばならない、と言わんとあかん気がする」

 

「お父さんは、違うと思う。例えば、お前の日記の割と早い時期に、寝させてほしいのに寝させてくれない、スカイプを切らせてもらえないこと、勉強やらなんやらあるから早く寝んとあかんことが延々と仔細に書きこんであった。お前の早く就寝しなければならないというあせり、彼女が寝させてくれないというジレンマに苦しんでいたわけやけれども、お前が、彼女のためにばかりではなく、あらゆることを総合して最善を尽くさないといけないという信念をもって行動していたからなんちゃうかと思う。お父さんの知る限り、お前は支配的な関係性への欲求やら依存なんかはないはずや。ただ相手があまりに強い力でしがみつくので、当時高校生やったお前はどうすればええかわからずに困り果てた。過酷すぎた。まあ親やからそう思いたいんかもしれんけど」

 

過去の汚点だと思いこんでいたものの中に、一筋の光明が差したと思った。当時への手がかりをほぼ失ってしまったいまとなっては、ネットを這いずり回っても、往事を共有していないカウンセラーに相談してもたどりつけない、父なしでは至れなかったであろう境地に至ったようだ。一段階救われた。父にとっても苦しかったはずの当時の記憶を、ぼくの都合で蒸し返すことに気後れするのと、ぼくがいまだに当時の苦しみをそのまま引きずっていると誤解させて心配をかけるのではないかという曖昧な不安から切り出せずにいたのだが、やっぱり話してみてよかった。

 

話題はもっともっと広範にわたりながらも*1深いところで相互に連関のある話もしていたが、ぼくにはしっかりとまとめられそうにないので、とりあえずこんなところ。

*1:例えばLes Misérables の話やら、父の人生と我が家の教育方針との関係やら……このあたりは数個前のエントリの元ネタになっている