きみはなぜ

本日は終戦記念日である。この2日間で、何度胃に鉛を感じ、脚が棒になり、重力加速度が倍加したか知れない。あらゆるものから解放されたいまはもっと勉強をしたいという気持ちがある。しかし、先のことはまだ何もわからない。もう2週間すれば虚無の世界に生きることになるかも知れない。


「きみはなぜファンデーションからアルジェブラ」


ぼくは抽象論*1が好きだから、それはウソではない。グループもフィールドも、またセットもトポロジーもおもしろいと思った。ただ、それは物事の一面にしか過ぎない。

 

本当は、一度挫折したんです、と言いたかった。ぼくはかつて背伸びして入ったゼミでぼこぼこになって、遠くを見つめながらスッーと失踪した。エクササイズのためにほかのすべてを擲ったために、結局何も身についていないことを深く恥じた。そうして「普通の」数学から半ば逃げるようにして、消沈しかかった興味が向かう最後の砦としてファンデーションを選んだ。

 

幸いなことに、それはそれでおもしろいと感じられた。対象そのものが興味をそそるものだったのか、あるいはその場に漂う和気にあてられてか、ともかくなんとかやっている。もちろんこのままこの道の先にあるものも見てみたい。

 

長らく「数学のできる人は苦労しないでも自ずからできる」という思いを払拭できないでいた。心のどこかで、そんな思いにとらわれることはつまらないと感じつつも、いま自分が取り組んでいること一切がひょっとすると無駄なのではないかという恐れが、どこまでも才能という単語の引力を媒介していた。心が失速すると、いつも同じ点に墜落した。

 

今回、院試ゼミという努力の過程は確かに楽しかった。日がな一日屋内に缶詰めで、ときどき神経がいかれて鼻水の洪水が起こったが、ちゃんと少しずつ成長している感覚があったし、人とのつながり、会話、連帯感が何より心地よかった。かつて自分で勉強したことが思わぬ形で役に立った瞬間もあった。許されるならば、この感覚を持って今後も勉強を進めたい。

 

やっぱり数学は人と人との間にあると生きてくる感じがする。スタンドアロンを前提とした数学はしんどい。人より突出することよりも、むしろ人となじんでいくという方角に向かって、まあとりあえず先が読めるまでは、歩み続ける。

 

「一度挫折したけれども、みんなで勉強し直して、やっぱり楽しいと思ったからです」

*1:言葉遊びともいう