「読書感想文」なんかよう書かんわ

『斜陽』を読んだ。この前は確か『善の研究』を読んだと書いた記憶があるが、それからいままでの間に何も読んでいなかったわけではない。いろいろ読みあさってはいたのだが、ぼくは作品*1そのものを「正しく」読解、比較ないしは検討し、それについて自分なりのアカデミック風の論評などを付け加える知識も技術も持ち合わせてはしないし、かといって勝手気ままな思いつき・感想を筆の赴くに任せてネットの海に放流する胆力も具えていない*2

 

「あまりにも見当違いなことを言っていたら……」という心配性が筆を止めてしまう。

 

知識を蓄え、技術を磨き、年齢を重ねれば、いつか「よっしゃ、一丁書いてやろうかな」という気概がじわじわと湧出してくるのかもしれない。またあるいは、あるすばらしい本に出会って「この本の書評は何が何でも書かねば気が済まない」という年相応の未熟な熱情が噴火してしまうことがあるかもわからない。

 

が、いまのところそういう気配はない。そういうわけで、読了した著作ひとつひとつについて個別に筆を執るという素地も激情もないという状態なのだ。

 

ただ、本を我流に味わい、知識を蓄えることはできる。新出漢字・単語などの国語の断片的知識から、歴史・思想という長大な体系的知識まで、あらゆるスケールで学び取ることはできる。またその間に並行して、読書に限らず人生のさまざまな側面をさまざまなタイミングで経験していくことになる。そうして長い時間をかけて人生が結晶化していく。混合物のような結晶だ。しかもその結晶は時時刻刻と変化し、その変化は不可逆的である*3。要するに、いま現在胸中にあることは、いま現在にしか書けないのだ*4

 

いま現在心裏に有する結晶の一面を書き出しておくというのは、そういうわけで有意義だと思う。後から見返してみても案外おもしろいと思えるものが書けるかも知れない。あるいは一瞥しただけで当時の幼稚さを察知し、脊髄反射でそっ閉じし、永久に記憶から葬り去りたくなるような粗末な代物が生まれるかもしれない。

 

同一の文章であっても、「いつの自分が読み返しているか」によって、評価は自ずと変わってくる。小学生の頃に書いた作文は、いま読み返してみれば穏やかな懐古の念を基調として、当時の自分のかわいらしさに思わず笑みがこぼれたり、反対に存外の早熟ぶりに感心させられたりすることだろう。ところが、中学生の頃の自分は、「ついこの間の自分」が書いたものだけに、文章の端々よりしみ出る、見るに堪えぬ幼稚な自意識をひしひしと感じ取って、引き裂いて燃やし尽くしてしまいたいという衝動に駆られるだろうと思う*5

 

以上のような事情から、さしあたっては個別の書籍について個別の感想文などを書くことはしないかわりに、書籍がもたらしてくれた読書経験を一旦ぼく個人の人生経験に統合してしまってから、毒にも薬にもなりそうにないごく個人的な(内面)生活を従来通りぼそぼそとつぶやいていくことになる。

*1:文芸に限らず新書・社会学系の教科書のたぐいも

*2:これについてはなんとなく30代くらいになればできるようになりそうな気がする

*3:極端な例をもち出すと、一度二十歳になってしまった者が、性欲も知らねば将来への不安も理解しない5歳児の内面世界を再現することなどできるであろうか

*4:これはこれで黒歴史を生み出す危うい考えかたかもしれないことは意識している

*5:こういったことは、例えば、小学生時代にトラウマを抱えている人には、同じようには感じられないかも知れない。もし万が一目に触れて嫌な思いをされたかたがいらっしゃれば、これはぼくというごく個人的な事柄を取り上げたに過ぎないことを言い訳にご容赦願うとともに、その不愉快を引き起こしたことを大変申し訳なく思う。あるいはこんな風にいちいち断り書きをすること自体が、読む者を信頼しない、慇懃無礼にあたる行為なのだろうか……