新学期到来。卒業ゼミのために予習をするも、すぐにすべてを忘れ去っていることに気がつき、復習にうつる。読んでみると、無理にわかったことにして進めていた箇所も、ああそんなことか、と頭に入ってくる。必死になってすべてを書こうとせず、ある程度まで頭の中でイメージだけして、「こんなもんやろ」で済ませてみる。前期に勉強していたときには、不自然なまでに、いわば普段なら気にしないようなレベルで正確さ・厳密さばかりを気にして、内容をおざなりにしてしまっていたことがわかる。

 

春にゼミが始まって以来一貫して「イメージが大事」と先生に云われている。「細かい式はどうでもいいので、まずはイメージを」と。それはそうなのだが、それができれば苦労しない、とうそぶきながらも、要するに追い詰められていたぼくは、ゼミのメンバーにときどき弱音を吐いていた。先生がいるところでは、下手なことはいえない、と考えていたのだろうか。いや、ゼミのメンバーや、友達にさえ、うかつに不正確なことを、たとえ試みにでも口にしてはいけないと感じていたのだろうか。変なこと、明確に誤りであることを口走った時点で、周囲が敏感にそれを検出し、「それ、間違ったことをいったぞ」と袋だたきにすると恐れでもしていたのだろうか。

 

<いや、そんなことはない>と前期のぼくは反論する。<世間はそんな狭量ではない。そのことはよくわかっている。いくら視野狭窄に陥っていたとしても、そこまでぼくの目は節穴じゃあない>と。しかし、なぜそう言える? 周りがお前に「君が間違ったことを言ったとしても、われわれは君を見限ったりはしないよ」と明示的に請け合ってくれでもしたのか? そんなわけはあるまい。なぜなら「あなたたちは、ぼくが不正確な主張を、冗談であれ、あるいは試験的にであれ、述べてみたとしても、ぼくを見捨てたりはしませんか?」などという、それこそ妙なことを訊くことなどできやしなかったからだ。その証拠に「ぼくの目は節穴じゃあない」と言っているように、前期のぼくは、ひとり遠巻きの観察(と、美化された過去の友だちづきあいを回想すること)によって「世間の寛容さ」を憶測したに過ぎない。それに、前期のぼくは人に、例えば発表順や次回の日程を確認するためのとするたびに幾度も逡巡し、メッセージを送るまでに何度も推敲し、結局「もうええわ」と半ば投げやりに送信ボタンを押していたのを知っている。

 

前期のぼくよ、確かに君の周りの人間は大抵寛容だ。すなわち、君の「洞察」は、結果的にはまあ正しかったということになる。ただし、その「洞察」は洞察ではない。「そうでなくては困る」という、窮地に立たされた者の一縷の望みに過ぎなかったわけだ。

 

まあ、しかし、安心してくれたまえ。後期はもう少しうまくやって見せるよ。そうして、ぼくは前期のぼくの苦労に報いて差しあげなければ。

 

やっぱり苦しみの渦中にあるときに、しんどいと嘆くいまの自分を甘やかすと決めつけてしまわないで、報われるかどうか確信を持てない未来のために、たとえ盲目的にでも、たとえ休み休みでも、たとえやけっぱちを起こしながらでも、もがいて、もがいて、もがき進む人の背中にこそやさしく手を添えたい。当然、「その苦しみは必ずあなたの望む形で報われるよ」などとは云えない。ただ、ぼくの情が、そのもがく生き方を支持したい、と言っているまでだ。ふつふつとわき出るegoの叫びに過ぎない。