自然とわき出た言葉の、その言葉遣いをじっくりかえりみてやりたい

この間はじめたディベートで、「モーション(お題)のワーディングを分析する」ことの効用を実感しはじめている。言葉遣いをしっかり分析することで、(相手を上回るための)スタンスを決めることができる、スタンスを実現するようなモデルを設定する、モデルの有用性(優越性)を示すために証明する項目が浮かび上がってくる……といった具合に内容が深まってくる。もちろん相手側も同じようにしてこちらを上回ろうとする。すると争点が発生して、そこにスピーカーが触れることで全体の議論も深まっていく。


この間から愛とかなんとか言いながら、何か本質的なことをとらえようとしているようで、その実核心部分からは一定以上の距離を保ちながら、その周囲をとびまわっているだけだという感覚がある。このことは「愛」のはなしに限らず、ぼく自身のパーソナリティ、ぼく自身の内面にかかわるあらゆることについて考えを巡らすときも、核心に迫ろうとしている格好をとってはいるものの、その入射角度はまったく甘い。文字通り、核のまわりを「巡っている」だけで、どこかにたどり着く気配がない*1。そのうち堂々巡りにも疲れて、「わかりません」で終わる。


ディベート的な"for or against"の二項対立が、内面のデリケートな部分を扱うのに常に適した道具かどうかはわからない。ところが少なくともその基礎をなしている「ワーディング分析」は確実に有用だろうと感じる。なぜなら、ディベートのモーションの分析においても、内面の言語表現の分析においても、「言葉の含んでいる意味」を追求するということにおいては同じことだから。自分の中からわき上がってくる言葉を書き出して終わり、ではなく、その中に含まれているひとつひとつの表現に焦点を当て、その意味を自問する。その答えを言語によって表現する。答えに含まれる表現の意味を、再び自問する……。その方法で、ある程度は深まっていきそうだ。

 

ただし、もう少し深刻な問題があって、それが「言葉(形)にすることすら避けている感覚が、形を持たぬの地縛霊ごとく脳裏をさまよっている」ということである。注意を用いず安易に表現するにはあまりにぶしつけであるために口にするのも(文字にするのも)はばかられるが、かといって、そうならないよう注意深く丁寧に表現を構成するだけの気力も時間もない。そもそもその感覚そのものが本当に「しっかりと分析すれば十分理にかなっていて、無用な攻撃性を含まず、なおかつ自分にとって(欲を言えばほかの誰かにとっても)意義のある言葉」に昇華できるかどうかさえわからない。

 

問題はいろいろとあるけれども、そんな中でもやっぱり正しい方へ向かって最初の一歩を踏み出さないといけない。とりあえずは、表現できたものたちのワーディングの分析だろうか。それが「最初の一歩」になってくれることを期待している。

 

*1:まとまりのなさ・不連続性といい、核のまわりをうろついていることといい、きみの思考はまるで電子の振る舞いそのものやないか!