信頼できる人たちに恵まれて、はじめて自分自身でいられる

信頼を置ける人たちがいてくれるということのありがたさを痛感する。はるか昔の漠然とした不安感・孤独感・雑踏の中で自分の居場所が見いだせないという苦しい状態から、少しずつではあるものの脱却しつつあり、それに伴って視界がクリアになっていくのを感じる。

 

人というものは丈夫で立派であるようだ。そうだ、ほとんどの人は、少しワーディングを間違えただけで発狂したり、泣き出したり、人生に絶望したりしないどころか、個人的な理由で少し距離を置かなければならないという状況があったとしても、「そうか、がんばって」と単純に受け容れてくれたりとか「さみしいけど、がまんする」と辛抱してくれたりすることすら(まるでそれが当たり前だと言わんばかりに)ある。ああ、たとい1日でも自分がその人の世界を留守にしなければならないことがあったときに、もっぱらそのせいでこの人は壊れてしまうかもしれないという気遣いをせずにすむという自由。そしてさらに重要なことには、世間話ほど飾らず気取らず、しかし内面の吐露ほど肩肘張らないような、たわいのない素直な会話、出任せの冗談を、「この表現は万が一にも侮辱的(offensive)ではないか」とか「ひょっとしてこの人にとっては傷ついてしまうような内容ではないか」というふうに四六時中気にする必要がないという安心。その中でなされる会話にこそ、ぼくははじめて「この目の前の人にとって本当に大事なこと」と「ぼくにとって本当に大事なこと」が、抑圧されない本当の「その人らしさ」がでてくるようだ。ぼくが父としてきた対話は、総じてこの自由と安心からなる信頼感に基づいて行われてきた。

 

「この人は、こんな程度じゃびくともしない」と信じられる人たちに恵まれて、はじめてぼくは、ぼく自身であることができるらしい。

 

いまぼくのまわりにいる多くのひとは、自分の足でしっかりと立ってくれている。ちょっとくらい押したり引いたりしても、おおよそびくともしない。現状においてそこまでの域に達しているか確信を持てない人もいるけれど(これはひとえにぼくの「信頼する能力」が育ちきっていないゆえである)、彼らだって、少なくとも立とうと奮闘してくれているじゃあないか。それがぼくにとってどれだけありがたいことか、言葉を尽くしたとしても、十分に言い表すことができないだろう。