小遣いを受け取る心苦しさを書きかけて

昨日はお小遣いを受け取るときの心苦しさを中途で書きさした。いまこの書きさしたという事実を記すのでさえ、相当なためらいをもってしている。借り物でもなければ、何かの対価でもない、使いみちも指定されていない、ただひたすら受け取り続けるだけの金。そのうちの何割が、どれそれに使ったと胸を張っていえるものだろうか。そもそも、何に用いられたのかを把握し記憶している分が、いったいどれだけのものか……いろいろと踏み込んで書こうとしたが、だんだんときりがなくなってきて、またそれ以上に苦しくなってきて、ついにやめてそのまま保存もせずウインドウを閉じてしまった。

 

自分で稼いだといえる金はいい。それがたとえ酒に変わろうが、パチンコに変わろうが、セックスに変わろうが*1、一向に気にしないし、気にするつもりもない。でも、それが親の稼いだ金、祖母に支払われた金だと意識してはそうもいかない。

 

それでも受け取るときは、そういう心苦しさを自ら添えて(とはいっても素直に感謝はしながら)受け取っている。受け取った後もしばらくその事実を反芻する。ぼくはまたこの小遣いというものを受け取り、そのうち多くはその場限りのちょっとした贅沢(ちょっといい日本酒、そこそこ上等なコーヒー……)といったものに消費されてしまうのではないか、いや、そんなことには使うまい、もっと自分への投資になるような物事に使うのだ……などと決めてみたりする。ところがやはり1日たつとそういったことは忘れて、自分で稼いだ金と区別がつかなくなっている。そして次に再び受け取るに至り、そこでようやく「前にもらった分は何に使ったんやっけ」という問いがはっきり意識される……。

 

ああ、やはり書いていると苦しくなってきてしまうし、たちの悪いことには、いくらでも書き続けられてしまう。もうやめておこう。もっと鋭くもっと簡潔に、もしくはもっと緻密にもっとねちっこく、自分いじめをすることはできるけれども、今日のこんな時間からそんなことをしだすと確実に明日にひびいてくる。今日はもうすでに終わっており、明日は明日でやるべきことがあって、それに心を向けてさえいればよく、今日にも明日にも関係のない話のために割くべき心の余裕などないはずなのに。以上、終わり、閉廷。

*1:酒はともかくパチンコや風俗にはまず行かないけれども