それは誰のせいか それは誰の手柄か

実際、自分の人生の成功や失敗はどれくらいまで自分自身の責任であるのだろうか。どこまでを自由の因果として引き受けるべきで、どこから手放してよいものか。

 

例えば、意識の間隙を巧妙にすり抜けてわたしをいましめているように見える呪縛(dead dogmata)、本来わたしが身につけてしかるべき聡明を以てその存在を見破り、自己の力によってそれを打ち破るべきなのかも知れない。また例えば、たとえ苦痛を伴う努力によっても変えようのない、生得の性質、本質的傾向、与えられた環境のもたらす必然や運命のごとく見えるものは、無闇に硬直せず少し方向を変えて到達できるところから眺望すれば実は困難も苦痛もなしに変えてしまうことのできるものなのかも知れない。

 

そういったものは、「やはり自分の引き受けるべきものである」という印象半分、「とはいえ各人がもつ時間的精神的体力的限界を考慮すれば、手放したってよいものだ」という印象半分。どうとも判断がつかない。

 

そして本当に手放してよいものを手放したら、それはいずこへ帰するのか。やっぱり生来の不変的性質か、その失敗の際に近くにいた人たちか、失敗に導いたdogmataを植え付けた環境か。それともたやすく思い至るような近場ではなく、もっとわたしの想像の及ばぬほど遠くのどこかへ漂着するのか。

 

成功も同様に、どこまでが自分の意志や努力の成果であって、どこからが才能や生まれのよさの領分に属するものなのか。

 

あるいはどこへも至らず、「誰の何のせいでもない」という言い回しの示すように、いずことも知れぬ中空を漂流しているのか。なればどうしてその成功とか失敗とか、わたしにとって重要であったり重大であったりする出来事が起こらねばならないのか。成功の歓喜陶酔を味わわせてくれた幸せを誰に感謝し、失敗の辛酸苦汁をなめさせられた鬱憤を何に晴らせばよいのか。