自我薄弱は人生の敵だ!!

就職活動も佳境を迎えてきたということで、ブログを再開したいと思っている。ここしばらく非公開にしていたのは、就職活動を通じて自分のブログが不利にはたらいてしまうことがないように身ぎれいにしておく、それだけのためだったのだ。


就活をやっていて、院生として生活をしていて、ツイッターをしていて、人と話してみて、とにかくあらゆるコミュニケーションを通じて見えてきた課題。それは環境に左右されない軸たる自我、エゴの薄弱さだ。


ぼくは以前から眼前の人に感情的に寄り添いつつも、理想や合理性を見失うことなく、バランスを保って傾聴できるものと自負していた。そして昔はその評価はそう間違ってはいなかったとおもう。もちろん当時なりに、若いなりに、ではあるけれども。


ところが最近はどうも感情的に寄り添うばかりで、目指すべき場所や穏当な着地点を見いだせていないまま話を聞いているばかりになっているように思う。なぜか。エゴが足りてないからなんじゃないか。向かうべき場所を見いだせないことは、すなわち、志向する力、かくありたいと希求する力が相当弱っているということなんじゃないか、と思うわけだ。


どうしてこうなってしまったかというと、それはもうこの何年もの過ごし方が悪かったというほかない。家に引きこもって、ネットで動画やブログを、ろくな定見も持たず消費的に見漁るばかりだったからだ。そうではなくて、まずしっかり外に出て、歩いて、自転車にのって、そうして学校で友達とよもやま話をしたり、カフェで勉強してみたり、いろいろ観光してまわってみたり、バイトをいろいろやってみたりして――とにかくパソコン以外の刺戟をかわるがわる取り入れるべきだった。モニターの光とスピーカーの音という、一方向からの刺戟ばかりで自我をすっかり鈍らせてしまった。


もとからぼくは濃密で強固なる自我をもっているわけではない。中高生あたりまでは、ぼくは自分をそれなりにしっかり自我をもっていたつもりだったけど、それは所詮親の教育の賜物、というよりも親の影響下にある家庭内にいることでようやく保たれていたものだったときづいた。ぼくはもう以前ほど人の善性や理性、愛といったものを信じることができていない。これは危うい人から身を護るという観点からは決して悪いことではない。だが、そもそも自分の身を委ねるあてがないというのはなかなか厳しいものがある。何より周りにいてくれる人たち、支えてくれる人たち、愛してくれる人たちに「ありがとう」と心から感謝をしたいのだ。それはやはり人の善性を前提としなければ、周囲の存在も、支援も、愛情も、すべて損得勘定(損得"感情")によるほかないように思われてならないのだ。


「君は親に洗脳されている。性善説で人生を滅茶苦茶にされたんや。親の顔を一発殴ってみたらどう」と、私の親を批判し、その"呪縛"から解放されるために暴力をすすめる人もいる。確かに、性善説だけでぼく個人としての人付き合いのしかたを規定するのは危ない。そしてぼくが引っかかった落とし穴はそこにあったと思う。「ぼくの愛が通じて、彼女がもはや『誰にも愛されていない』などという惨めな虚構になずまずにすむようになる日がきっとくる。それまで全力を尽くし続ける」これが間違いだった。特別そのように意識していたわけではないが、「相手の性は十分に善であるので、私個人の愛情をもって不幸を取り除くことが可能なのである」というロジックであるわけだから、これはいまになってみれば相当な思い上がりというか、世の闇、心の闇についてあまりに無知だったということになる。


ところが、やはりぼくは、ぼくと良好な関係を築けている人たちの善性は信じていたい。そして人の性の善なることも信じたい。そうでもしなければ世を愛することができなくなってしまう。世上の個人個人にぼくの愛が通じなくてもいい。ただ世界中のいかなる形であれ苦しみ悩める人のために祈る心を持ちたい。人の性のあまねく善なることを否定してしまうならば、「性の善なる者」と「そうでない者」とに生まれつきの区別、断絶があることを認めることになって、「そうでない者」をバカで未来永劫救いようがない残念な層として、無視しなくてはならなくなる。そんなんいややわ。ぼく個人として彼らにできることがなかったとしても、せめて彼らに祈りを捧げることくらいはしたい。そしてぼくはそう思えることに誇りを持っている。もし、こういう価値観を洗脳の結果と一笑に付し、「親を殴ってみては」という提案を引っ込める気がないのなら、ぼくの拳が突き抜けるのは親の頬ではなく、あなたの顎の先端やでな。脳震盪でも起こして、軽率で無礼な提案をしたことをどうぞ反省してもらいたい。


頭がはたらいていない状態で書き始めたから、話がそれてしまった。要は、いまぼくの自我は弱くとも、親が教えてくれたものはいまだ大切なものとして胸の奥底にしっかりあるということを確認したかった。話を戻すと、ぼくの現状の課題は自我が薄弱だということ。そしてこれは受動的で消費的なネットライフにいりびたる限り、抜け出すことはできない。だからもっと外にでます。たとえそれが遊んでるようでも、きっと人の脳はよい刺戟と受け取ってくれるにちがいない。


そろそろ脳も生活リズムも限界だからねます。