長らく更新をさぼってきたが、 いままた折に触れて更新をしていこうという機運が高まっている。 書きたい、 書くのだという意思がいま明確にあるというわけではない。 ただ久しぶりに気まぐれで本やら人のブログやらを読んでみたときに、 漠然とまた人生のこと、 愛情のこと、 性のこと……といったテーマ単位でムラムラと 「そのうち書きたい気を起こすだろう」 という予感がぼくの中にあるというだけだ。 といって、 また更新が途絶えてしまう可能性も十分にある。 そのときはおそらく、 やはりこれまで通りの生活でぼくは十分楽しく、 満足して過ごせていたのだから、 いまさら自分自身に文章を、 ことさらこのブログで書き続けるという必要を感じずにすんでいたということなのだろう(とすれば、 更新を 「さぼってきた」 という言い方は適切でないかもしれない)。 

 

いまは『レ・ミゼラブル』と『カラマーゾフの兄弟』を同時並行で再読しつつある。 たまに息抜きのために新しく買ってきた漱石の『明暗』を読むつもりでいたが、 かえってこれが主になりつつある。 やはり比較的読みやすいのでそうなってしまう。 自制していきたい。

 

それから借金玉氏がツイッターで自称フェミニストを一喝していたのをみかけて(本筋の)フェミニズムに興味を持った。 いまは本当に通り一遍の知識(第1~第3波があってうんぬん程度)しかないので、 ひとまずベリーショートイントロダクションあたりでもうちょいまともな外観をつかんで、 おもしろそうなところを深掘りしていけたらいいなと思っている。 これは憶測でしかないのだけれども、 現在の日本のフェミニズムと欧米のフェミニズムではだいぶん趣や流れが違う可能性があると見て、 ちゃんと英語でも読んでいかんとあかんかもなという気がしている。 そんな時間はあるんか知らんけど。

8月の終わりがけにようやく夏休みがきて、少し気分が落ち着いた。2週に1度のペースのセミナーはたるみと焦燥感が嫌な具合でマッチする。先週から今週にかけては予習を先延ばしにしてNetflixに浸かり込んでいた。寝ているかドラマをみているか。ベッドタイムを夜の3時から朝の8時にするなどお安いご用。ドラマであれドキュメンタリーであれ、ふらふらあてなく歩く頼りないジャンキーが自分だったとしても驚くに値しないと感じる。

 

 

世の中と接続するにはあまりに刺激が足りない。脳が重要だと判断して勝手に食いついていくようなものがない。この世に存在しないわけではなく、自分の現在地からあまりに遠い。隣の部屋にいる祖母ですら遠い。

 

近々ひとりでバーにいってみたいと思っている。ずっと思っていたが、今日ついに連れに先を越されたこともあって、やるかーという気持ちになっている。気持ちのままで終わらない確率を少しでも上げるためにここに記す。

ニケとゼロとで平壌冷麺をいただいてきた。ちょうど昨日は平均的な人間の平熱よりも2度ほど高い、発狂ものの猛暑日だったので、気候を含めておいしく食べられた。スープは酸味がきいてあっさりで、麺はおそらくこれまでの人生で食べてきた中でいちばんシコかった。スペシャルを注文したので麺の上に焼き肉がのっていたが、それもおいしかった。また神戸によった折に訪れたい。


その後スパワールドに行こうとしたが、同様の考えを持った人びとがビッグサイトなみの列形成をしていたのでわれわれ3人は諦めた。プール・温泉のためにオタク並の忍耐力を発揮することはできない。ちょっとご休憩ということで西成の喫茶店でアイスコーヒーをいただき、店のおばちゃんの素敵な香水の香りを感じながらオルタナティブを相談する(文字通りの意味。料理組合飛田新地に近いが、別の意味があるわけではない)。住之江の温泉施設に行くことになった。普通のサウナと塩サウナを1回ずつやった。やはり塩を塗ると上がったあと肌がすべすべになっているような気がする。


それから梅田で串カツを食べた。ビールを800mLハイボールを1杯注文したあとにむちゃくちゃなノリで冷酒を3瓶開けてしまった。頭が痛くなり、後悔することはわかっていた。わかっていながらそんなアホなことは、ひとりでできるものではない。けど楽しいから乗せられてのんでしまう。そしてこのことを新鮮に感じてわざわざ書き立ててしまうのは、すなわち孤独を長く経験しすぎてしまったということなんだろうなと思う。

ぼくはどんな文章を書くことにやりがいを見いだしているのか

他者に宛てたものを書くことのおもしろさ、そしてやりがいをかみしめている。ごく簡単なメモ書きから、仕事の報告書、心をこめた礼状、じっくり取り組んだ課題のエッセイ……。一方でこのブログで書くのはとてもしんどく感じてしまう。どうして同じ「書く」ことであるのにも関わらず「他者宛」と「ブログ」ではこれだけの差が開いてしまうのか。

 

これまでこのブログで投下してきたエントリの99%は自己完結・自己目的の文章であった。誰かに読んでもらうために書くのではなく、自身の心の整理のために書くのである。(1)過去に自身に起こったことが現在のわたしの自我に及ぼす、名状しがたい関係になんとか試みの説明をランダムな角度でつけ (2)その蓄積を改めて吟味し、「だいたいこんな感じやろ」という自分自身に関する理論をつくる……それによって(3)深い自己理解、「私とはこのような人間だ」という確信を強くすることができるだろう、というのがブログを立ち上げた意図であった。

 

しかしながら、こういった作業をたったひとりでやりとげるのはきわめて困難なことだということを認めねばなるまい。というのも実際にぼくができているのは、高く見積もっても(1)の「過去に自身に起こったことが現在のわたしの自我に及ぼす、名状しがたい関係になんとか試みの説明をランダムな角度でつけ」ることしかできていない。それも厳密には、現在感じている苦しみを安直に――試論らしい試論、もっともらしい説明もなにもなく――ただ投げやりに過去のせいにしてみているだけ……と書いている最中の自分自身がそう感じてむなしくなるようなものばかりである。我流でやる自己分析はなかなかうまくいかない。うまくいかないのであればもっと時間と労力をかけて精進しよう……という気も起こらない。書いて、書きっぱなし。もうほとんど振り返らない。そんな有様だ。

 

ところが、必要性を伴った他者宛の文章を書くことは本当に充実感をもたらしてくれる。それは"ことばのつかいかたこだわりをもつ私"の興味(自己志向な欲求)と、"これをするのは他者のためである"という目的意識(他者志向の欲求)が両立しているからだと思う。これは現在ぼくが読みかけているGritにおいても指摘されていることだが、自己志向並びに他者志向の欲求を同時に満たしてくれる仕事は、いずれかかのみを満たしてくれる仕事よりも、貫徹しやすい。それはまあ、「この仕事が好きだし、人の役にも立っている」と感じていれば、やり遂げようと自然と思えるものだという主張は、感覚的にはほぼ自明の理であろう。

 

結局「人のため」と「ことばへのこだわり」の両者が結びついているからこそ「他者宛の文章」は大抵充実感をもって書けるのだと思う。

 

そしてこれを敷衍してみると、同じブログで書く文章でも、自己完結・自己目的であることに執着せず、このブログを書き続けることで「人のためにもなっている」という感覚をもてるようにすることが、エントリを生き生きとうみだすための鍵であろう。幸いにも、自分ではしょうもないと思っていたぼくの文章を「おもしろい」と言ってくれる人はいる。そのうれしい、ありがたい言葉を、自分勝手に感じるむなしさ、アホらしさで薄れさせてしまってはいけない。まず単にもったいないし、それ以上に、実はそう言ってくれる人の心をまっすぐそのままに受け取り損ねているということを意味しているからだ。

 

ぼくはそうして親しい人が自分にかけてくれることばを大切にしないような人間か?

 

否、決してそうではない。


このごろはかなり忙しいから実現できるかどうかはわからないが、少なくともぼくはこのブログをそうして「読んでくれる誰かのため」にも書いていくことにする決意だけはしておく。

 

Grit: Why passion and resilience are the secrets to success

Grit: Why passion and resilience are the secrets to success

原著。ぼくはこっちを読んでいておもしろいと感じる。 
 
 
やり抜く力 GRIT(グリット)――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける

やり抜く力 GRIT(グリット)――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける

 

こっちは邦訳版。ぼくは未読。個人的には帯の宣伝文句が気に入らない。「最強」は百歩譲ってよしとしても、「最速」のメソッドでは決してないので。カスタマーレビューを見ているとだいたいそのせいで低評価をつけているようだ。もったいないし、このキャッチコピーは本当に中身を読んだ人が書いたものなのか疑問をもつ。

やっぱり誰かと一緒にわいわい数学をやっているのがいい。ホワイトボードを囲んでする問答のおもしろいこと。図書館でめいっぱいやってから外に出た瞬間頬にあたる風のなんとさわやかなこと。みんなで一緒に食べるタイカレーのおいしいこと。

 

そうしてみてぼくにはやっぱり孤独なたたかいは向いていないんだと、悲観を交えることなく淡々と受け止められる。仲間を得て、失って、もう一度得て、そのありがたさを痛感する。

 

このささやかな、しかし実は貴重な幸せを糧に、院生生活を送る。

台北旅行 (1日目)

前回のエントリからずいぶんと間があいてしまった。無事免許を取得できたりなんやかや細かいことはいろいろあったけれども、個人的ビッグイベントとして2泊3日の台湾旅行があったのでそれについて書く。

 

卒業旅行(今度こそ本当に卒業!)として、連れと台北あたりを観光した。われわれの性格上厳密なスケジュールを自分で立てたところで計画倒れになるのは目に見えていたので、地球の歩き方の例から実際の状況に応じて引き算し、時間が余ればネットなどに書いてあるおもしろそうなところを訪れてみるという戦略をとった。例えば、朝何時に起きてどこどこへ行くという計画をとると、どうがんばっても二度寝をしたいという欲求と衝突する。そのようなことを避けたかった。

 

第1日

 

まず関空から桃園空港。実はここが最難関で5時起きからの6時前の電車に乗れたらこの旅行は成功したも同然だ。ふたりとも徹夜でがんばった。えらい。一旦飛行機に乗ってしまえば、うつらうつらしているうちに着く。

 

着いたら適当に4万円くらい両替をして、悠遊カードを買ってMRTに乗る。悠遊カードは日本で言うICOCAやスイカにあたるICカード。そしてMRTは高速鉄道。空港から台北市内までの40kmを35分で駆け抜ける。車内はとてもきれいで、キャリーバッグを置く荷台がついており、トラベラーフレンドリーな印象を受けた。公共交通機関が清潔だとやはり安心する(小汚いなら小汚いなりのおもしろみはあるが)。

 

ホテルは台北駅の近くにあった。シャワーおよびトイレがガラス張りになっていて、いわばきれいめ路線(?)のラブホテルのような雰囲気だった。残念ながらAVは配信されていなかったしコンドーム等も用意されていなかったので、多分そういうことではない。

 

とりあえず小籠包などを食べに行く。当然のようにおいしい。もっというと日本でもお金を出せば食べられそうな、常識的な味。このまますべてが予想の範囲内におさまってしまわないかという懸念はあったが、一発目の食事からインパクト追求路線をとらなければならないわけでもなし、満足しておく。

 

世界8位の超高層ビル台北101を見に行く。天候が悪く、あまり遠くまで見渡せなかった。建物の中には巨大なボールがぶらさがっていた。……そう言えば台湾も日本と同じく環太平洋造山帯に含まれていて、地震が頻発する。現につい1か月前にも大きめの被害が出ている……なるほど、そうかそうかと納得していたらwikipediaに「いや、風圧対策やで」と書いてありました*1

 

ここまでそこそこ楽しんではいたものの、無難な見所ばかりまわる普通の観光をしていたのでは終われないというハングリー精神を発揮して、とうとう夜市にいった。いかやカキといった海鮮系の屋台、あげ団子の屋台、丸鶏のローストをつるした屋台、チョウドウフ料理の屋台などが肩を並べているから、一歩ごとに鼻に入り込んでくるにおいが変わっておもしろい。もしこれが2泊3日ではなく長期滞在だったなら腹を壊そうが熱を出そうがかまわずあらゆるB級グルメに挑戦していただろう。いや、もしかするとまだ台湾という初めて訪れた国に対して身構えていたところもあったかも知れない。いくら物好きを自負しても、やはりびびるときはびびる。危ない香りのする誘惑を通り過ぎて、(屋台ではない)カキオムレツの有名店に入ることにした。ついでにデザートに「ライスケーキ」くらいつもりで「米糕」(ミーガオ)を頼んだら豚の味ご飯が出てきたので、カキオムレツといえばやっぱ米糕でしょとわかったふりをしながらおいしくいただいておく。

 

徒歩でホテルに戻る。連れは早々に入眠。ぼくはさっぱりしようと前述のガラス張りのシャワールームに入ったのだが、若干立て付けが甘かったらしく閉じ込められてしまった。しばらく孤軍奮闘するもこのままではらちが明かないと判断し、壁面をこんこんたたいてぐっすりお休みになっている連れを起こして協力を要請した。全裸で助けを呼ぶぼくを見て周章狼狽する連れを見て、ぼくは他人事のようだが内心少しだけ愉快になった。それが心理的によいほうにはたらいたのか、数分間の奮闘の後、ついに努力は報われ、脱出に成功した。

 

第2日以降は気が向いたら書く。明日からはニケやゼロ(両者とも当ブログ既出人物)と四国に行く。

*1:しかし壁面の説明書きはいかにも免震のための設備と書いてあった。よくわからない。とにかく揺れに強いらしい

1月下旬から2月第1週までゼミの仕上げにあくせくしたり、名古屋やら東京やらへ飛び回ってはなはだ忙しかった。そのつけがいよいよ回ってきて、東京から帰ってくる日にインフルエンザを発症した。B型だった。帰宅してから1日待って病院に行った。特効薬を吸入して熱は割とすぐにとれたが、のどの痛みが火でも噴いたのかというほどひどかった。痛さのために夜中に目が覚め、耐えきれず、毎食後に飲むべき痛み止めを追加でのんでごまかしたほどだった。いまは咳のしすぎで腹筋が痛いほかはありきたりなレベルの苦痛ですんでいる。

 

ブログを更新していない間にふと思い立った。目の前の苦痛の由来をもとめて過去に遡及するのはだいぶん控えたほうがよいのではないか。問題は一過性・一時的のものではないという重みがつくため、他人の同情を買い支援を得るには確かに役に立つことしばしばではある。が、問題解決のためには自分でつけたこの重みがまさに足かせになる。絡まった糸のうちいま重要な1本に集中すればよいのに、全体をほどくべしという問題にすり替えてしまってどつぼにはまるような感覚とでもいえばいいだろうか。

 

さらにいうと、大抵その問題とやらが本当に問題なのかもあやしい。確かにある種の傾向が認められるといえば認められるだろうし、その根源を追求すれば好むと好まざるとに関わらず、どうせさんざ繰り返し持ち出してきた「わかりやすい」着地点しか見いだせない。それで一見取るに足らない痛みをいわば歴史によって権威づけて大げさに騒ぎ立ててしまうのだが、ある種の楽しいことの最中もしくはその後しばらくはだいたいさっぱり忘れられていられるし、思い出しても何の痛痒も感じない。

 

裏返すとこれは楽しいことが切れるとだいたいぶり返してくるということを意味するのだが、これをどうとらえるべきかは人生をどういうものだとみなすかという価値判断の話に近づいてくる。つまり人生とはショートタームな事柄の蓄積(消化)であって、その場その場をどうしのぐかという問題にほかならないと思うか、はたまたストロングゼロなどで毎日をごまかしながら生きるのではなく、むしろ長い目で見て後悔のない一生をつくりあげるべきだと思うか、みたいな。これはまあ居酒屋で友達とでもやればよい話。とりあえず自分で考えておけばよいのは、そういう痛みを忘れさせてくれる楽しみをどうやって見つけるか、その幅を広げるか、その質を高めるか。