「シンプルを積み重ねよう/子育て的恋愛のリスク」

共依存対象と会わなくなってからはや5年が経とうとしているが、いかんせん心の傷が化膿し、新しいパートナーと付き合いはじめて早2年にもなる今なおまだ治療は難航している。

特に春休みになったいま、翌日の授業を気にせず夜遅くまでツイッターで鬱々と沈む頻度も少しだけ増えた。

自分の思考をうまく方向付けて、心の傷のことは考えないようにしてはいるが、それで完全に封じ込めることはできない以上、これは対症療法にすぎない。

社会生活の合間に自分を苛むものと時々向き合い、粘り強く根治を目指していかなければならない。

納得して、過去のことと認識できるようにすることを。

 

多角的に理解しなければそういう境地には至ることができないと思う。

そこには「あれだけしんどいことがあってなおかついまも苦しんでいることなんやから、結論がそんな単純であってもらっては赤字もええとこや」という打算・願望もある。

また両親から、しんどいことだから無理に振り返ることはない、と言われてきたことと相まって、いつしか「これは必然的に長く複雑な物語にちがいない」という思い込みを形成し、「長く複雑だからそう簡単には手をつけられない、対峙すべき時を待たねば」という先延ばしをする癖をつけてしまった。

その間いくらかお試しで努力はしてみたが、そのたびに理解・納得の過程において出てきそうな自分の非や見苦しさが見え隠れし耐えられそうになかった。

そこで作戦変更して具合の悪い部分を避けつつも満足のいく結論を得られるご都合アプローチを求めてさまよった結果なにひとつ手がかりのないまま多角ところか一角すら攻めこめていないというのが現状である。

これはいけない。

そういったわけで、このごろはとにかくシンプルに、たくさんの視点からことを眺めて軽い感想を書き付け、それらを重ねてゆくことで私の共依存体験としようと考え始めている。

長編なんていらんねん。

オムニバスストーリーでええやんか。

 

さて、実践してみよう。

 

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

この記事を大変おおざっぱに要約してしまえば他人の世話というきっかけを経て大事なものが自分から他人へと変化していくことを指摘する内容なのだが、これを読んで少し消化が進んだように思う。

 

あの恋愛には世話焼きの要素が色濃く出ていたことについては当初から自覚があった。

高校生だった私はすでに「子育て」という呼称を思いついていた。

ただ、「子育て」に伴うリスクについては当時の自分に教えてやらねばならないかもしれない。

「子育て」は高校生には背負いきれない「苦しさ」や「責任」*1があるからしてはいけないのではない。

早いうちから子育てに精を出すことは自己研鑽のフェイズを中途半端で切り上げる覚悟が必要だということなのである。

もちろん子育てしながら自己研鑽することは不可能ではないが、両立それは大変な努力を必要とするし、もっぱら自己実現を目的としてそれを行うのが難しくなるだろう。

 自分自身のために十分に人生の時間を割いてやらないまま他人にをやること、これは一時の「苦しさ」や「責任」なんかよりも一生を左右しかねないリスクであるにちがいない。

 

思ったよりも長くなってしまったが、はじめてしまえばなんとかかけてしまうものだ。

私自身の経験を自分に固有のものだと決めつけて誰に語ることなく心中するよりも、こんな風に少しでも外部の知恵や経験と接続してアップデートしておくことによって、これから先に出会うであろう人たちや出来事に生き生きとして役に立つ経験としてストックしておくほうが自分らしくて気持ちいい。

これが根治への方向であることは間違いなさそうである。

*1:実際に生まれてきた自分の子どもに対して負うものではなく、交際しているのだから相手が苦しんでいるときにはなるべくそばにいて助けてやるものであろう、程度の意味合いである