おばあちゃんごめん

またおばあちゃんに大声を出してしまった。突然部屋に入ってきてびっくりした。おばあちゃんに悪気はない。いつものごとく夜遅くに帰ってきたぼくがおなかをすかせていないか心配してご飯がいるかどうか聞きに来てくれたのだから。

 

入る前にノックして、少し待ってほしいとは伝えてある。でもおばあちゃんはこれまでそういう習慣がなかったようだし、いきなり言ってもなかなかうまくいかない。そうかといってこちらも強く言い聞かせるだけの図太さはもちあわせていない。それでいつも大きな声を出して、自分でショックを受ける。おばあちゃんも顔には出さないがショックを受けていることだろう。

 

ならば辛抱すればいいだけの話なのだが、ぼくにもプライベートに過ごしたい時間はある。どうしても。もしおばあちゃんがぼくと話をしたいなら、よろこんで応じる。"話をしたい"などと改まったものではなくて、日常的でたわいないふれあいでというのなら……いや、きっとそういうものではないのだろう。"したい・してほしい"などという要求・欲求ではない。

おばあちゃんは、家族という存在の重さを人一倍かみしめていることだろうと思う。「思う」というのは、ぼく自身の身内びいきを承知していることを表したつもりなのだが、そう思えるだけの根拠はある。秘密というわけではないが、その話はいずれ機会があれば。

 

手紙を書いた。怒鳴って申し訳なく思っていること、ぼくによくしてくれて感謝していること、いつも大きな声を出して後悔ばかりしていること。心を込めて書いた。書きながら心が痛んだ。手紙はダイニングテーブルの、おばあちゃんの特等席に置いておいた。明日読んでくれるだろう。

 

しかし、そうやってふくれあがった後悔をその場しのぎで返済していてはいずれ期限に追いつかれることになる。取り返しのつかない後悔の日がやってくる。まっすぐに生きてきて、たくさん苦労してきたのに、かなしい気持ちで晩年を過ごさなければならなかったなど、あってはならない*1

 

感傷に浸るのはこれくらいにして、そろそろ寝よう。疲れているとおばあちゃんと過ごすのは楽しいということを忘れがちになる。東京行ったらみんなに「吉本や~」ってよろこばれるくらいおもろいばあさんなんやからな、うちのおばあちゃんは。

*1:それとも70余年の人生を23歳が慮ろうとすることからしておこがましいだろうか