「処女信仰」は「処女厨」とはもう全然ちがうねん

処女信仰という言葉を、単なる潔癖症に過ぎないと軽んじていたところがあったのですが、次のQ&Aがそれを考え直すきっかけを与えてくれました。

 

oshiete.goo.ne.jp

 

非処女の女性に対する価値の低迷は、「貞操観念の低さ」や「判断力の低さ」
つまりは時流や周りの影響で何の考えもなく処女を捨てた女性の軽薄さや、
体目当ての男性に言葉巧みに騙され処女を捧げ、食い捨てられたにも関わらず「やむ負えず別れてしまった」「いい経験になった」
というように自分を正当化し、騙された事を認めない女性の浅はかさが理由であり、
処女の女性を信仰する理由は「貞操の大切さを重んじる意志の強さ」や「一つ一つの恋愛を大切に考える奥ゆかしさ」によるものです。

つまりは、処女膜絶対信仰やよく言われる非処女は○○○だといった考えは、処女信仰から派生した悪しき過激派発言に他なりません。

 

なるほど。そういえば私が処女信仰に抱いていたイメージは、いつの間にか「処女厨」と呼ぶべきものにすり替わっていたようです。「節義を大切にする」「欲を優先させて無責任な振る舞いや人格を貶めるような言動、少し立ち止まって考えれば後悔するとわかるようなことをしない」という当然かつ大切なメッセージを「処女信仰」は男女双方に向けて発しているようです。私自身としては、貞操そのものにことさら魅力を感じるわけではありませんし、頑固一徹に高尚な自己像を保つ生き方には気力・体力が追いつきませんが、傾聴し心にとめておく価値のある考え方だなと(いまさらのようでもありますが)感銘を受けました*1

 

置かれている環境に合わせて適応する柔軟さ、自分のあり方に限界を感じたときに変節する勇気、そしてニュートラルな状態では本来自分のあるべき姿をリカバリーできる芯の強さ、たとえて言うならば竹のごときしなやかさをもって生きる*2――父との語らう中でそれとなく学び取って、私の意識に染みついている考え方なのですが、「本来自分のあるべき姿」を適宜取り戻すための"トリガー"あるいは"リンク"のひとつとして「処女信仰」は機能してくれるのではないかとわくわくしています。人生を四苦八苦もがいているうちに自身のあり方がぶれていくというのは、歴史から言っても、年端も行かぬ私の経験から言っても、ほとんど決して避けられないことでしょうから。

 

それにしても、質問者が救われたようでよかった。社会に対して倫理を規定し、必要な者には救済をもたらすあたり、「処女信仰」ってまさに"宗教"のようでおもしろいですね*3

 

*1:おそらく「貞操」や「貞操観念」という熟語そのものはラブコメアニメ/マンガで何となく出会って知っていたのですが、必ずと言ってよいほどいつも女の子の大胆(あるいは無邪気な)セクシーな振る舞いにうろたえて、うぶな男の子が歯切れ悪く照れ隠しをするというコンテクストだったからなのでしょう。処女厨的なイメージとの混同が解消されたことも相まって、割と古めかしい考え方であるにもかかわらずむしろ新鮮に感じられたのかな

*2:resilienceという語もなかなかしっくりくる(2016/12/14加筆)

*3:さらに言うと、もとの「信仰」から分派して過激派が出てきたりするという現象なんかがますます"宗教イッシュ"ではありませんか