観念的女性恐怖症を克服する

(内向性を存分に発揮した、人によってはしんどいかもしれない内容です)

 

長年心の中にあったわだかまりが氷解したように感じられたので、それについて記録しておきたい。とはいえ、そもそも「氷解」の感覚に対してぼくは全幅の信頼を置いてはいない。「わかった!」と思って風呂から飛び出すなり全裸で街中をかけずり回ってみたものの、実は勘違いだったり、同じことの再発見だったり、小さな進捗が大きく見えただけだったという恥を経験しすぎている*1。感情が大きく振れているときに人は醜態をさらすものであるということを肝に銘じて、普段以上に慎重に言葉をえらびながら、このよろこびをかみしめたい。

 

「女性」に抱いたしんどさと、その場しのぎの対処法


長い間、「女性」というものを観念的にとらえようとすると胸に不穏な波が押し寄せるがあると自覚していた。個別の具体的な女性に接しているときには(その人がよほど「危なそう」でない限り)そんなことはなく、むしろぼくのためには大抵よき交流相手であってくれた。あくまでぼくの中にある「女性」という観念に意識を奪われはじめると起こる現象で、最近はその頻度も減っていたが、少なくとも月に1度くらいは大なり小なりそういう残念な苦々しさを味わわなければならない瞬間があった。誤解を恐れずに言えば、「自分が『不当』に扱われているような錯覚」*2である。

 

そして、このざわつく感覚があらわれるたびに、「ひょっとしてぼくは『女性』というものに対してけしからん偏見を持っているのではないだろうか」という自責の念が立ち上ってきて、余計に胸が苦しくなった。問題の根の深さを思いやると、ぞっとした。ぼくには異性との持続的な恋愛関係が、もはや不可能となってしまったのではないかという思いが幾度も頭をよぎった。

 

この苦しさをやり過ごすために、強引であることを承知しながら、さっさと自分なりに結論づけて忘れようと努力してきた。それは、例えば、「高校のときに痛い目にあったから、そういう風になることもあるやろ」とトラウマ説を持ち出してみたり、「誰しも男性的・女性的な特性をいろいろな比率で持っていて、その女性的な部分が嫉妬しているせいではないか」と性のグラデーション説をアレンジしてみたりするといったやり方であった。これらは対症療法に過ぎなかったが、いまとなっては本質的にも当たらずとも遠からずといった対処法で、もう少し仔細に心中を閲するだけのガッツがあれば、もっと早くに解決を見ていたのかも知れない……。

 

分人主義の導入

 

分人主義は、自分というものを扱う際に、「個人(individual)」*3よりも小さな「分人(dividual)」という単位でとらえるとうまくいきますよ、という考え方である。すなわちひとりの人間は「唯一の本当の素顔をもった存在(=個人)」ではなく「接する人や物事それぞれに専用の人格(=分人)があり、その総体としての存在」であるという原理に基づいて、自分のあり方や振る舞い方や価値観などをとらえ直すのである。

 

「個人」という概念は、何か大きな存在との関係を、対置して大掴みに捉える際には、確かに有意義だった。――社会に対して、個人、つまり、国家と国民、会社と一社員、クラスと一生徒、……といった具合に。
ところが、私たちの日常の対人関係を緻密に見るならば、この「分けられない」、首尾一貫した「本当の自分」という概念は、あまりに大雑把で、硬直的で、実感から乖離している。

 

一人の人間の中には、複数の分人が存在している。両親との分人、恋人との分人、親友との分人、職場での分人、……あなたという人間は、これらの分人の集合体である。
個人を整数の1だとすると、分人は分数だ。人によって、対人関係の数はちがうので、分母は様々である。そして、ここが重要なのだが、相手との関係によって分子も変わってくる。
(……)
また、他者とは必ずしも生身の人間でなくてもかまわない。ネット上でのみ交流する相手でもかまわないし、自分の大好きな文学・音楽・絵画でもかまわない。あるいはペットの犬や猫でも、私たちは、コミュニケーションのための一つの分人を所有しうるのだ。


個人(individual)の不可分性(individuality)に根ざした「本当の姿」という考え方の反対の極にある思想が、「私という存在は、ポツンと孤独に存在しているわけではない。つねに他者との相互作用の中にある。というより、他者との相互作用の中にしかない」という、著者の断定的な主張にあらわれている。


この考え方を採用すると、ひとりで悩み葛藤する自分というのが、実は「様々な分人が入れ替わり立ち替わり生きながら考えごとをしている」(平野)ということになる。また、自分と他者との相性によっては、生き心地のよい分人(気に入っている人といたり、好きなことに取り組んでいるときの自分)や悪い分人(仲の悪い人といたり、好きでないことをやらされているときの自分)があったり、時にはあるひとつの分人が何らかの原因によって異常な膨らみ方をして他の分人を圧迫したり、不適当な考え方に分人化の機能が阻害されたり(ある特定の関係に病的に固執するなど)する。

 

「女性」問題の解決

 

さて、「女性」問題である。ひとまずの解決法から言うと、次のようになる: 自分と個別具体的な女性との間で生まれる自分の分人で、気に入ったものを大切にすること。これを基本方針として実践し、場数を踏んでいくこと。これまでの感覚から言って、重点はむしろ「気に入らなかった分人にきちんと見切りをつけてやる」「相性の合わないことを、変に勘ぐったり、自分のせいにして無理に合わせようとしない」方にあるだろう。

 

「女性」の観念に誘発されて肺のあたりに押し寄せる波とは、過去に不幸な事故にあった分人たち*4が、「対女性防衛団体(仮)」というおおざっぱで的確でない名目で寄り集まった「分人の団体」*5なのではないかと結論づけた。これだけなら分人という単語を用いずに、「女性にまつわる嫌な思い出が、はっきりしたものからおぼろげなものまでいっぺんに押し寄せてきた」と言っても、叙述としては誤りとはいえない。が、分人を用いることによって次のようなメッセージが意味をもつようにできる。

 

対女性防衛団体(仮)のみなさまへ

あなたがたは、かつてその手の危機に瀕した際には、なんとかがんばってくれました。そのおかげでいまのわたしがあります。いまとなってはよりよい理論と、それに基づいた堅固な防衛機構がありますから、もう解散して記憶の深いところでゆっくり休んでいてください。いままでありがとう。

わし(53)より

 

こういうものは、読まされる側からすると、薄ら寒いかも知れない。未来のぼくが、このエントリを読み返して、立腹と苦笑に顔をゆがめ、「恥の悦びを知りやがって」とスマホの画面をねめつけているいるかも知れない。それでもわざわざ書いたのは、「氷解」を得た瞬間にあふれ出たこのメッセージがまさにこれであり(実際に紙の日記にそう書き記した)、その感覚をここに書きのこしておかなければ気が済まなかったからである。だから、このエントリを撤回するときは、おそらくは冒頭に続いて留保したようにその「氷解」が間違いであったと判明したときか、もしくは自分のさして成熟しているとはいえない内面をかくも惜しげもなく開陳している事実に耐えられない分人が幅をきかせはじめたときだろうと思っている*6

 

*1:もっとも、恥は必ずしも悪者ではない。客観的・社会的には抑止力としてはたらくし、主観的にも恥の感覚は、うまくやると心地よいものでありうる

*2:現に女性から不当に扱われていると言わざるを得ない男性もいることだろう。また、その逆に男性から不当に扱われているとしか言えない女性も。その問題についてはここでは論ぜられないが、せめて彼ら彼女らが心安らかに過ごせる日が来ることを祈る

*3:"in-"否定の接頭辞と"dividere"「分割すること」で「不可分なもの」「(最小)単位」の意。古典ギリシャ語における"atomos"の訳語であるという

*4:必ずしも高校時代のみを指さない。「女子から男子であることを理由に会話から排斥されて傷ついた」など、ごくありきたりなものまで含む

*5:分人の足し算で分人和と称してもよいかも知れない

*6:その上で背景説明(言い訳)だけさせてもらうならば、これは以前に読んだ『うつからの脱出』が下敷きになっている。「不安」や「怒り」や「かなしみ」といった、一般的には「ネガティブ」とされている感情は、本来自分自身を守るための<感情のプログラム>であると説明されていて、紹介されているプチ認知療法はどれも「ネガティブ」な感情や認知を一方的に唾棄するのではなく、むしろ感謝・受容しながら、より楽な方向を目指すという一定の方針が見て取れる。このことが念頭にあって、上のようなメッセージがシャーペンから流れ出てきたのだろうか