数学者?? やるかいそんなもん!!

ぼくはいま酒をのんでいる。「浦霞」という、近所のコンビニの冷蔵庫*1で売られている日本酒の中で最も高い価格帯のもののひとつである。それを飲み干したら、春限定の「のどごし生」をあけるつもりだ。その酒の勢いに任せて以下のことを書く。いささか感情的になっていることを理由に、当エントリを「エチケット袋」に放り込み、「続きを読む」で封をする。以下は酒を飲み過ぎた結果、胸からこみ上がってきた吐瀉物に他ならない。なるほど大抵不愉快な代物には違いないが、床にぶちまけず、きちんと袋におさめたことは、一定の功績として認められねばなるまい。

 

 

今日は、遅々として進まぬ発表をして、ラーメンを食べた。ぼくの発表はいつでもどこかでつまる*2。その原因をひとことで言えば、言うべきことをすべて頭の中に入れていないということに尽きる。全体像が見えていない*3、メモにも書いていないとっさの思いつきを口走るといったふわふわ感がいけない。それは発表者の義務の不履行に相違なく、したがって改善の責任は発表者にある……。

 

さいわい、いまやっている自主勉強会は、比較的カジュアルな雰囲気の中でリラックスしてやらせてもらえている。わからないところはわからないと白状し、他の参加者に助力をこう。参加者はそれに応えてくれる。誰にとっても息苦しい停滞に、せめて一握りの意味を持たせてくれる、知性と忍耐強さ、すなわち「理に裏打ちされたやさしさ」にぼくは支えられてきた。会も残すところ数回となったが、きっとぼくはその会の知性と忍耐強さへの甘えから脱することはできないだろう。


ぼくは3回の後期に、あるゼミでついていけなくなって、抜けさせてもらうことになった。そのゼミは、前期に指定された授業である程度よい成績(初学者にとって少し骨のある問題をいくつか解けばそれで取得できる)をとることによって、参加することが許されるというたぐいのものだった。ぼくは浅はかにも、ほとんど体裁を保つために、そのイスを勝ち取ろうとしたのだと思う。


こういうと、当時の自分はおそらく「さらに勉強してスキルを磨くためにがんばるんだ。虚飾のためじゃない」と応えただろう。しかし、それならば、なぜ、3回前期の核課程を落としに落としまくっているのか。なぜ、2回生までの授業にはろくに参加もせず、かといって自主勉強もせず、テストを運任せに受け、たくさん落とし、落とした単位(半数近く!)には目をつむって、偶然もらえた単位をもって、「自分も、まあ、善戦しているほうではないか」などとうそぶいてきたのか。どの口が「さらに勉強してスキルを磨くためにがんばる」とのたまうのか。いつだってパソコンを優先して1日に12時間もやって、数学は二の次でやっているくせに、その二の次でやっている数学で、何が「さらに勉強」なのか。もともと勉強しとらんやろが、という話である。


イスが用意されるということは、ただ能力を認められたということではない。その認められた能力を見込んだ責務を提示されるということでもある。そのイスに座るということは、「買っていただいた能力をもって、与えられたつとめを遂行すること」を宣誓するということである。


ぼくは研究者にはなれない。もし仮に「どうぞ」とイスが用意されたとして、てこでも座るものかとすら思う。少なくとも半年前よりはぼくは自分のことをよく知っているつもりだ。自分は数学の研究者には決して向いていない。自分は数学者としての務めを果たすつもりなどない。いや、そもそもそんなことはできないのだ……。そしてそのイスは、数学をする、それがたとえ俗な豊かさに直結するものでなくとも、毎日数式を触って、毎日本を読んで、毎日論文を読んで、毎日0.01ほどのささやかな発見をして、その0.01が積み重なって、運がよければたまに新しい定理を発見する。それこそが我が生きる道なのだという人に与えられんことをただ祈るばかりである*4


一方でぼくに残された道は狭まった。「大学の研究職の補集合」かつ、だいぶん年を食ってしまったから「一流企業の補集合」かつ、もとよりあまり体力がないから「体力を要さない仕事」かつ、「vanityに執心するあほうなぼくにもつとまる仕事」だ。空集合か? いや、そうであるにはこの世は広すぎる。とはいえ、そんな秘境を自分が見つけられるかどうかは畢竟運任せではある。

 

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ちょうどてーきゅうなわかりづらい親父ギャグをかましたところで、このエントリの結びとする。ぼくはいま何かに抱かれることを必要としている。酔いの覚めやらぬうちに、えいやと公開ボタンを押してしまうことにする。えいや。

 

*1:コンビニにあるあの開閉式の冷蔵庫は「リーチイン・ショーケース」というらしい。客が自ら扉を開いて、手を伸ばして中にある商品を手に取るからということなのだろう

*2:俳句の夏井いつき先生がぼくを知っていたなら、「さくさく進むDKの発表があったらもってこい」とおっしゃったであろう

*3:全体像の大きさも、普段から数式を触って指先に感覚を持っている人と、各行の変形に苦悶煩悶3行空けば七転八倒をもってせねばならない人とでは、自ずとちがってくる。慣れた人は簡単そうにこなしてしまうが、不慣れな人には自分がいましがた書いて言ったことにすら振り回されてしまう。不躾なアナロジーをあえてはたらかせると、老いや病で短期記憶がおとろえた方がたのストレスや不自由さというものが、このとき、なんとなく感ぜられるような気がする

*4:できることなら、国公立大学における研究職は、どんな風にでも生きていける器用な人よりも、数学をやるより仕方ない、そういう不器用な生き方しかできない人に与えられればいい。これはぼくの勝手な思いである