共感していればそれで満足なのか

 

必ずしもイージーではないが、決して「高尚」なものではなく、ただ単にそれが父のキャラクターに適した、また実際に積み重ねてきて習慣になった生活様式であるというだけのことだ(という趣旨のことを父はいう)。

善の方へむかって歩み続けなければならない - The Loving Dead

 


このように安易に書いてしまったが、記憶違いであるような気がしてきた。たとい記憶違いでなくとも、この「気楽さ」や「単なる習慣」の方面ばかりを強調するのは片手落ちだ。普段の「気楽さ」についてはそれを実現することが「イージーではない」ことと表裏一体であることに触れたが、「高尚」でないと言いっ放しにするのは不誠実な感じがする。「人には立派だと言われることもあるが、自分としては全然当たり前のつもりやねんな」という感覚そのものはわかるつもりだが、ある意味において確かに貴さがあることをあわせて言及すべきだった。


絶えず自己批判が伴う限り、ある習慣とは「その習慣を捨てない選択をし続ける」ということでもある。極端に言えば、ひとつひとつの言動や経験を重ねるたびに、人や本に触れるたびに、これまで保ってきた思考・行動様式を自意識の俎上に載せることを意味する。もちろんそれはしばしば大いに苦痛を伴う(今風に言えば「刺さる」)。何年も、何十年もその困難を乗り越えていまなお残る習慣は、一種試練を耐えた価値ある営みと呼ぶべきではないか。少なくともぼくには真似できないし、それを「自己満足」と切って捨てることは到底できない。


こうして自分の肉親を持ち上げるのは何とも慎みを欠くように思われて微妙な心持ちになる*1が、まあ、ぼくもぼくで「適度に失敗し損ねた親」を持つ淡い贅沢な苦悩がある。当人としてはある程度失敗してくれたつもりなのかもしれないが、いやいや、この歳になってもやっぱりまだお父さんの背中がでかすぎるんやで。


これを反省したのは、本当はまず称賛すべき場面で共感が先立ってしまい、自分に引き寄せた発言をしてしまうということが、父の例ばかりではなくこのごろよくあると自覚しているからだ。ある尊敬に値する言動に触れて、「それはすばらしい考え方/行いだ」と言うべきところを、あたかも自分で同様の体験したかのような錯覚をして「なるほど(それはわかる)」と言ってしまう。これは自他の境界をわきまえずに、反射的に他人の手柄に対して自分の権利を主張しているようなもので、厳にとまでは言わずとも、ほどほどにおさえておかないと礼を失する恐れがある*2


また、相手の話で共感できるところがあったとしても、まずはその人の得た成果である事実をうわべばかりではなく認知の上でもきちんと重んじた方がよい。自分自身に引き寄せて考えることは、自分自身に引き寄せきれない部分を捨象するということでもあるからだ。自分に引き寄せきれない部分を切って捨てたまま放置すれば、それは他者の美徳を矮小化をしてしまっていることにほかならない。せっかく外からやってきたお話を、自分の引き出しの中身と較べて同じだ同じだとよろこんでばかりいては進歩がない。時々はそうやって満足感の方を優先することも必要だけれども、自分に引き寄せきれない部分に学んで「自分はまだまだやな」と謙虚に姿勢を正すこともまた思い出せるようでありたい。


物わかりのよさやら共感力はそればかりでは不十分で、やはり相手を尊重することとセットであることが望ましい。

*1:恥の感覚に近い。しかし、恥の感覚はぼくの専門分野なので、これを敬遠するわけにはいかない。沽券に関わる。ぼくはあえてその恥を味わっている

*2:こういうことを厳密にやりだすと、それはそれでまたぎこちなく、息苦しいコミュニケーションを強いられる。難しいですね