ふたりめ

ぼくは高3の初夏に1年下の後輩Sと付き合いはじめた。Sはぼくにとって人生で2人目の彼女だった。

 

Sは明るく清純で素直な人だった。ほっそりしていて、二重まぶたの大きな目で、何かにつけて眉を上げて見開いて反応していた*1。手と唇がすこし乾燥気味だった。手については、小さい頃、繰り返し過度に洗いすぎたせいだという。容姿も精神もかすみ草がよく似合っていた。当時のぼくには不釣り合いだった。

 

病みに病んで、生きる意志をほとんど失っていたぼくにとって、Sはまぶしすぎた。みんなに気を遣われて硬直してしまった人間関係のうちで、積極的に生き生きと接触してくれたのは彼女だけだった。ぼくの話をおもしろいといって傾聴してくれたし、またK自身もいろいろなことを話してくれた。その日学校で習ったこと、部活動が大変なこと、それから彼女の妹がぐれそうで心配していることなどを打ち明けてくれたのをぼんやりと覚えている。

 

Sはまともだった。まともすぎた。ぼくは彼女がぼくを慕ってくれていることに感謝しながらも、頭の片隅で「Sにぼくの経験は伝わるまい」と判断していた。Sが想像力に乏しかったとか、情緒を解さないというわけではない。聡明な人だったし、ぼくの置かれている状況に痛切に同情してくれていた。一生懸命寄り添ってくれていた。しかし、なぜ、いかなる道理でこうなってしまったのかを理解することはできないだろうという点においてぼくは醒めていた。ぼく自身、数年越しにこのブログをわざわざ立ち上げるくらいには消化しきれていなかった(いまでもそうだ)くらいなのだから、同年代の他者に、それも後輩にわかってもらうことなど到底かなうわけがない。第一理解されるべきものでもない。こんな奈落の底の内情など、わざわざのぞき込んで感性をはたらかせててまで知悉すべきことではない。とはいえ、当時まだ生々し過ぎた経験をもてあましていて、彼女が理解者になってほしいという欲求を完全に滅却できていたわけではなかった。

 

彼女に不釣り合いなのは、ぼくの態度だった。彼女の「好き」をきくのは確かにうれしかった。ぼくも嫌いではなかった。できることならもっとちゃんと彼女に向き合いたかった。ただぼくはその日その日をやり過ごすのがやっとだった。意識にはほとんどいつも死がつきまとった。それが明瞭なときは、どこまで生きながらえてどこで死んでしまうのがいちばん都合がよいのかという分析を試みたり、あるいはそれが漠然たるときは、ただぼんやり苦しみに浸っていた。死を意識していない瞬間もあったように思うが、いずれまたすぐに死ぬことを考えてしまっていた。そうしてぼくの中で彼女をひとりの人間としてとらえ切れていないことを自覚して、一方ではそれはしかたのない、自然なことだと言い聞かせながら、やはり他方では自分の苦痛ばかりに目をやるぼく自身の自己中心性に嫌気がさした。

 

その頃、人間の精神状態をレールの上を転がる球になぞらえて自分の状態を理解しようとしていた。すなわち2次元のなめらかなグラフのように山や谷(平衡点)があり、持続的な外的作用や精神力によってその間を行き来する。そしてぼくは抗しがたい一方向の外力によって富士山のごとき大山を数多く登っては下り、登っては下り、いまはある谷の底でうずくまっている。その谷からもう少し進むともうひとつ小高い山があって、その先はおそらくレールが途切れて絶壁になっている。ぼくはこのような問いを持った。もう少しエネルギーがわいてきて、この苦しい谷からの脱出を試みたとき、果たしてぼくはどちらへ向かうのだろうか。一生懸命大きな山をいくつもこえて、またもとの状態へ戻るのか。それとも背後の小さなひと山をこえて、絶壁から身を投げてしまうのか。あるいはもとへ戻る道を試みたとしても、その大きな山をこえきれなければ、反動で勢い余ってついに絶壁から飛び出してしまうのではないか――。

 

結局、半年ほどで別れることになった。詳しくは知らないが、家族からのはたらきかけもあったはずだ*2。一方がこのような精神状態にあってはまともな関係が築けるはずがない。ぼくも彼女も疲れていた。正しいことだったと思う。

 

その後も「最近どうですか?」と時々連絡をくれて、それをきっかけに2度か3度ほど会った。丁寧なことにプレゼントを用意してくれたこともあった。

 

ある日「もう会わないほうがいいと思う」というメッセージに「そうなんかな」と返してからやりとりが途絶えた。それがだいたい4年前のことで、彼女とはそれっきりである。

 

この間父と話したときに、母が「はじめて出会ったのがSちゃんだったら」と口にするときいて、久しぶりに彼女のことを思い出した。確かに彼女が先だったら、高校生らしい付き合いができただろう。その後もいまよりははるかにまともな、まっすぐな人生にはなっていただろう。彼女には、誰をも思いやる余裕のない病人などではなく、誠実な少年が相応しかった。上のごとく、彼女についてほとんど何も語り得ないことをもってそのことを再認識する。

 

これだけ書いてみても2000字ほどの重みはなく、これだけの文字を費やすことに薄ら寒さを覚える。1を一生懸命100に膨らませて書いているようだ。書き始めたことすら悔やまれる。すっかり空洞化してしまった記憶だ。

*1:味気ない言い方をするとBotWのゼルダ姫を黒髪にしてくるりんぱにしたらだいたい方向として正しい

*2:自分ではじめた恋愛(!)を終わらせるのに家族を巻き込まなければならないことほど情けないことはない