もう少しだけありのままを書きたい

サークルの合宿前夜、この時刻に至ってなお眠れないから、いっそ開き直ってパソコンを立ち上げブログでも更新することにする。こういうときに限って余計なことを考えてしまう。それも合宿に関わることではなく、院試のことやら、卒業ゼミのことやら、今度行こうとしているビワイチの日程調整のことやら、ぼくの書くこのブログのあり方やら、てんでんばらばらのことが次つぎと頭の中を駆け巡る。入眠のためには頭を使うのはよくないから、結論の出ないうちにさっさと思考放棄してしまうのだが、うち遣ったところにまた別のことが頭の中に流入してきて、連続的でとりとめのない考えがぐるぐるとひっきりなしに、意識の俎上にのぼっては、いつの間にやら消失している。


その中でもひとまずブログのありかたについての所感を書き連ねてみる。書いていたらほどよく時間が経っているだろう。


ぼくはブログに書こうとしていることを、恐れずに、もう少しだけ素直に書きたい。


これまでは何かにつけて具体的な情報を、ほとんどの場合、ひた隠しに隠ししたり、書いたとしても適当にフェイクを入れてごまかして書いてきた。例えばこれまで「サークル活動」とばかり言ってきたが、何のサークルかはついぞ明らかにしてこなかった*1し、さらに直近の例でいうと、「近所の商店街のモスバーガー」と書けばよいところを単に「ファストフード店」とのみ書いて済ませてしまったりした。しかし、これではせっかくやり始めたディベートのことについて何も書けないし、マクドではなくモスだからこそできる話もできない。具体性を切り捨てることで、書くのに使える材料が著しく制限されてしまっているというわけだ。もっと言えば、ぼくがこのブログで日記として投稿した体験の多くは、具体性とともに独自性が流失したものとなってしまっていたのだ。そういうものは当時の記憶が薄れてしまってから読み返したときに、感触の不明瞭な大味の文章に感じられてしまう。いわば「(書き手にとって)賞味期限のある文章」になってしまう。ましてや、ぼくの体験を共有していない読み手からしてみれば、「何のことやらフェイスブック文学*2」状態になり、誰にとってもうまみの少ないことになってしまう。


ぼくは悪感情や軽蔑を恐れすぎていたと思う。3回生まではディベートもやっていなかったので、自分に最も関係のあるコミュニティといえば学部の数学科だったが、それに対してかなり偏った印象を持っていた。それはそこに属する学生とほとんど実際に知りあい交わることができなかったことによって洗い流せなかった先入観であった。例えば「(数学ができないので/できなければ)人権がない」といったような発言を小耳に挟んだりして、しばしば傷ついていたりした。まさか自分めがけて放たれた言葉だと信じていたわけではないものの、しかし、ひとつには自分自身があまりできるわけではないことを自覚していたこと、もうひとつに、「誰かを意図的に攻撃しようとしたのではなく、ある必要に迫られて出てきたこと」*3なのだろうと自分を納得させることができなかったことで、ぼくはなかなかの息苦しさを感じてしまっていた。


でも、いまはそれはほとんど自分で作り出してしまっていた息苦しさだったと確信を持てている。ディベート、卒業ゼミ、院試ゼミという場で人と交わることで、しんどかった先入観にようやく求めていた修正が加えられはじめた。たとえこれからブログが知人の発掘するところとなったとしても、いまなら受け止められるような気がする。

 


ぼくは、まあ、がんばってぎりぎりのところを生きてきましたし、いまもそうです。みんなもそれぞれにがんばってなんとか生きています。うまくいくことばかりでもないでしょう。その軌跡を無闇にぼやかさずに、もう少しありのままをのこしておく行為それ自体によって肯定したいと思うわけです。

 

そろそろ出発しなければ。

*1:実は4回生になってからはじめたパーラメンタリー・ディベートのことを指している

*2:典型的な例でいうと、インターンやサークルのイベント、各種勉強会などに参加した学生が、その内容にほとんど言及せずに「いい経験になりました。みなさんとの出会いに感謝」といった、当事者にしかわからないような投稿。もっとも、これについては主催者・他の参加者へ向けた挨拶・お礼の意味が込められている点において、ぼくが自分で問題にしている事柄とは本質的に異なる

*3:それは吐露されることを必要としている一時的な苦い感情かもしれないし、あるいはその会話の流れ・雰囲気かも知れない