「女性を愛する」ってなんなんだ

人を愛するということがどういうことなのか、少しは自分なりに理解しているつもりだ。いや、ぼくのような若輩者に「愛」という深遠なテーマをすっかり理解することはできるわけがないはずで、またすっかり理解したのでなければ、それはまったく理解していないのと同じなのかも知れない。それでも、アホなりの愛を実践したい。いまは少し無茶をしたときの古傷がうずいていて、全力でコミットできる状態ではないが、それでもやはりいつかはしっかり悔いのないような愛を、うまく体現したい。適宜修正と訓練とを重ねながら、すこしでもよい愛し方ができるようになりたい。

 

ところが「女性を愛する」とはどういうことなのか皆目わからない。そもそも「女性」とはなんなのだ。「女性器を備えもつ者」だろうか、「『自分は女性である』という自覚を持ち、"女性"として生きていくことを選ぶ者」だろうか、あるいは「世間の"男性"に『この人は"女"だ』と決められた者」だろうか。

 

そういった定義が適切であるような文脈はもちろんある。医学やら生物学の話をしているのなら「女性器」による定義がおそらく妥当であろうし、心理学やらジェンダー論、フェミニズムセクシュアルマイノリティ関連の話では「アイデンティティ」「自己規定」あたりを出発点にしておくのが議論の出立点として無難そうだ。安居酒屋なんかでありそうな「好みの女談義」において、「自分が女として見うる許容範囲」が、(ぼくは知らないけれども)採用されているのではないだろうか。

 

しかし、「ぼくにとっての(ぼくの愛の対象としての)女性とは何か」を定めようとすれば、これらの定義はほとんど無意味(ill-defined)になってしまう*1。先日も述べたとおり、ぼくにとっての愛は、まだ慈愛しかない。そしてそれを「女性」というこれまた輪郭のはっきりしない集合*2に制限するということが、ぼくにはどうもしっくりこない。

 

もっと人生経験を積めば、もっと別の、もっと深い「女性に対する愛」を見つけられるのだろうか……。わからない。

 

あなたはどういう意味で「女性を愛する」と言っているのか。

*1:「それは君が自分の好みをわかっていないだけだよ」という指摘があるかも知れない。しかし、そもそもぼくは好みの属性/型(i.e. タイプ)の話をしているのではない。あくまで愛の話をしているのだ

*2:これは公理的集合論はおろか、素朴集合論においてさえ、集合とは認められない!