なんだかんだ言って、それって「自己弁護」じゃないの??

中高時代からの友人と飲んだ。彼は、今年の春から修士過程でうちの大学でドイツ思想を中心に研究を進めている。思想というからには哲学にも当然触れないわけにはいかず、したがって(まだ初学者ではあるようだが)ヘーゲルなどをやっているらしい。

 

哲学をやっている人との対話というのはなかなかに刺激的で、ときどき隙を突くように鋭い指摘を投げかけてくる。特にぼくの性(行為)に関するスタンス(1on1の世界ほど恐ろしいものはない、ぼくは連れがよそでセックスしてようが一切意に介さないし、むしろそれを奨励する……など)について語り、そのスタンスをとるに至った遠因として、例の出来事(要するに高校時代の例のあの人Mとの1年間)をあげ、その故にいま抱いている精神的欲求に基づく、すなわち単純な肉欲の範疇には収まらない、複雑な性欲を形作っているのだ、という仮説を表明してみたときに、「それはしかし結局、おまえが『現在とっているスタンスと性欲のありかたが(単なる個人の趣味として閑却すべきものではなくて)きちんと正当化されうる、されてしかるべきなのだ』という自己弁護に走っている可能性はないだろうか」という問いかけは、実に見事な切り込みだと感心した。

 

「自分が(あるいは思想家が)自己弁護に走っているだけではないか」は常にチェックすべきポイントであると彼は言っていたが、確かにその通りだと思う。これは「自己弁護に走ること」そのものを悪とすべきということではなく、「確かに自己弁護ではない」ということを可能な限り示すべきである、つまり「自己弁護ではない」という点に立証責任(burden of proof)があることを意識すべきだ、ということだと解釈した。

 

いや、なかなかにおもしろい対話だった。哲学科の人間はよく飲み会の席を設けたがるという話があったけれども、その理由の片鱗を見たような気がする。