もっともプライベートであるはずの時間でさえ遠慮なく現れて、ぼくを監視し責め苛む者がいる

さんざん日本で生きてきていまさら季節に文句を言ってもせんかたないこととは承知しつつ、いやに寒くなってきた。この時間経過とともに階段状に寒くなっていくところが大変いやらしい。秋の存在に疑問をもつ。こうなるとますます外に出るのに勇気がいる。おかげさまで昔の腑抜け間抜けの生活よりは進歩してこのごろは一応予定はそれなりにあるからそれを元手に寒風に対抗できるだけの装備をなんとか捻出する。玄関ですでに外気の厳しさを感じながら戸を開けると、ああ、耳たぶが凍る。マフラーは静電気がこわくて滅多にしないから頸もいっしょに冷える。呼吸するたび鼻腔や肺が冒される。太陽は愛想よくさんさんと輝くものの温度上昇には寄与しない。笑顔だけかお前は。けれども冬の屋内外のきっつい落差が脳を刺戟し、よどんでいた思考が流れ出す契機になる点は正当に評価しなければならない。その流れ出した思考で先日ぼくは次のようなことをぼんやり振り返ってみた。

 

かつてはよその人と自分との間に差異を見いだしたとき、大抵は興味の対象とするかたいした注意を払わないかのどちらかで、もって苦にするということはあまりなかった。ちがっているということを本質的な理由として害を被ったとは感じなかったから、その差異に対していかなる価値判断を加えるかはもっぱら自己の裁量によると信じていた。どれだけ変態じみた考えを起こそうが、またそれを自分に対して実行しようが、中身が女みたいだろうが、自分がどう感じようが考えようがそこには自由があった。

 

どうもそこに不純物が混入している気がしてならない。なんと表現すればよいのか、罪の意識みたいなものにつきまとわれているような、そういう感覚がある。見られている。監視されている。自慰やら性行為の最中、不意にどうしようもなく責められているような気分に襲われることがある。行為中に抱くイメージに正しいとか間違っているとか、そういう検閲がいちいち入ってきたりする。しかもその検閲の責任者は自分の心なんだからやってられない。うせやろ。セミナーじゃあるまいし突っ込むのはしかるべきものにとどめといてーや。

 

自分らしく振る舞うというのは難しい。自分が誰にとっても受け容れがたいほど変態すぎるかもしれないと仮定するとすなわちどん詰まりだし、実は自分の変態具合はさほどでもないのではないかも知れないと思うと、不当にこれだけいやな思いをしなければならないことについて不平不満を述べたくなる。けれども、そんな文句をいわれる筋合いのある相手はいないから、結局ぐっとのんでしまうよりほかない。寒いからといって北風に苦情を申し立てるくらいにむなしい。それにこんなことをこれだけ思い詰めなければならないことそれ自体がもう情けない。メンタルもろもろやないか。何の用があってさほどに肩の力が入っているのか。たしけて。柔軟さをかえして。

 

実はそんなに悩んでいないということを証明するために、最後にどうでもいいことを書いて終わる。わざわざ宣言するということによって「実は悩んでいる」ことが多少真実であることを明らかにしてしまっているわけだが、そこまでこだわっていたら夜が明ける。仮免許に受かって、路上に出るようになった。よかったわねえ。年明けるまであと何日くらいかしら。金暴力SEX! これがわたしに可能な精一杯のユーモアです。悲惨、パセティックですね。

 

いまふとぼくは風俗通いの、多少しがなさを帯びたおじさんになるべきかもしれないというインスピレーションがふってきた。交際相手との間にはぐくむ愛には含められない不純物のようなやるせなさをなんとかしてもらう場所としての風俗。既婚者がセックスレスになって、あるいは単にマンネリを感じて、その埋め合わせに風俗に通うというのは確かにもっともらしい。けれどもそういうのではなくて、心の中の自分の手では届かないところにたまってくるホコリを取り除く手伝いをしてもらうために、例えば2か月に1度くらいのまばらなペースで通うような、そんなおっさんになってみる価値は見込めそうに思う。交際相手への愛情を滞りないようにするためのクリーニング。交際相手とセックスするときに、不意に襲われるいやな自己検閲とそれによる心身のこわばりを軽減するのに役立つのかどうか、まったくわからないが、まあとりあえず何かアクションを起こしてみなければ、前に進めない。

 

さて、わずかながら希望がもてたところでもう寝よう。明日はまたごく初等的な代数的整数論をする日だ。