腹立ちぬ

教習所の教官には、可能ならばとなりで運転すること謹んでお断り申し上げたい部類がいくらかいる。大同小異周辺からそのように脅かされてきたから、どんな魔境やと前頭葉に負担をかけて入所からしばらく過ごしてきたが、何のことはない、大抵平成的にあっさりとしかしひとつひとつ丁寧に、さもなくば昭和的に愛想よくおおらかに教えてくれる人ばかりで肩すかしを食ったと思っていた。第1段階修了までは。

 

第2段階に入ってからまだ半分にも到達していないうちに2度ほど(それぞれ別人)閉口せざるを得ない手合いにあたっている。何に閉口するかというと、イライラをわざわざ態度に、言いぐさに、息づかいに、ありとあらゆる手段に訴えてあらわにしてくるのに弱る。仮に何者にも邪魔されることなく対面して話したら話せんことはなかろう。ただ運転中にカリカリと差し迫ってくると困るのである。これも教育の方便であって、後に生きてくると言われたらその理屈はひとまず買うことにするが、実際されてみて愉快なものではない。かえって事故を起こしそうな気にもなる。

 

ひとつひとつのミスを指摘するのはよい。どうしてダメなのかを説明するのも、注意を促すのもそれ自体は大変ありがたい。ただ念のための確認を入れたらいちいちキレた大和田専務のごとく鼻でため息をつきながら声を低くし荒げて理解力を疑うようなひとことを付け加えたり、磯野家当主のごとく周波数の高い怒声を用いて血気盛んにしかしねちっこくミスを復習されるような環境で30分もハンドルを握っていたら、こちらもさすがにじりじりと追い詰められてくる。窮鼠として猫をかむ義務が立ち上がってくる。というか単に腹立ちぬ。さりとて帳簿を投げつけて「うるさいんじゃい」と一転攻勢に持ち込もうとしても失敗に終わることは歴史の証明するところであるし、そもそもそんな胆力が備わっていれば高校中退などせずに済んでいる。

 

とりあえず出任せに「そうですねえ右折のために進路変えたんやからまっすぐ行く理由はないですねえええうん(早口)」とたたみかけておき、さらに機会をみてほんの心持ち勢いよくアクセル・ブレーキペダルを踏み込むくらいのものである。どんな長大なプログラムもどんな長編小説も窮極ひとつの自然数、もう少し推進すれば0と1だけで表現できるようになって久しいこんにちにおいて、ペダルの踏み具合で「う」「る」「せ」「え」「ぞ」の暗号を発することなど雑作もない。すると「ペダルはもう少しやさしく踏んで」と言われても、先ほどまでの嫌みは相当抜けている。オタク特有の早口*1が功を奏したのか、暗号が解読されたのかはわからないが、ひとまず溜飲は下がる。

 

溜飲が下がると、今度はかなしみが上からふってきた。第一に何らかの傷を負ったということそれ自体がかなしかった。責任を自身の伎倆と精神の未熟に帰しても余るものがある。第二にその傷をかばうのに講じた防衛策の浅はかさがかなしかった。やり返すにしても両脚で毅然と立って正正堂堂とではなく、こそこそともったいぶったやり方に出た。第三にこの出来事を通じて少しでも真に受けたところがあるということがかなしかった。振り返ってみると、何もかもしょうもなく感ぜられるし、検討することすら無益でアホらしいような気もわいてくる。この出来事もはなからブログのネタにしてやろうと意気込んで検討したのではなくて、知らぬ間に途中まで考えかけて愚であると気づいたのだが、すでに引っ込みがつかないほど風呂敷が広がっていたのでいっそ日記になるまでこの道を貫徹してやろうと開き直ったまでである。

 

それでも自分自身のこととして引き受けるのなら、しょうもないこと、あほらしいこと、つまらなそうなこと、そこへ考えを巡らすこと自体がやましいようなことをごまかして素知らぬふりをするのではなく、まずはかけらでも正直に受け止めなければならない。どうせ避け続けたところで心の澱になって、ふとぐらついた拍子に舞い上がっては目の隅にちらちら映り込んでくる羽目になる。

*1:あたりを見渡して自身にオタクを自称するだけの資格はもたないと承知の上のことだから、厳密にはオタクの威を拝借したということになる。ついては本脚注をもって謝辞とする