数学は人生を豊かにしてくれるが、人生そのものを成り立たせてはくれない――というようなことを思って電車にのっていた。こと人生が自分の手から滑り落ちて、転がっていくのを追いかけるのに精一杯であるときにやれるものではない。数学から暮らしを整えるという境地に達することができればありがたい。数学をやらなければ具合が悪くなるというのはかっこいいが自分が経験するにはちょっと行き過ぎの感がある。とにかく、うまくいっているときには大変興味深いものであるには違いないが、平衡を失って頭がそちらへ順応しないときには真っ先にリストラされる地位をいまだ脱していない。

 

もっとも、数学を通じたコミュニティの広がり、人との交流が、ハリとうるおいと刺戟を与えてくれることには相違ない。しかしこれは家に独座して数学書とにらめっこしていて得られるものとは峻別されなければならない。これを見誤って苦しみのうちに起臥したのが前3年間ほどである。人との交わりよりも先に学を入れておかなければならないと肩肘張って背伸びをして、失敗した。ついに穴ぼこだらけの知識をもって最終学年を迎えた次第である。

 

バランスを取り戻す方法はひとつではないけれども、今回エンジンを開始させてくれたのは人との交わりだった。だからといって、次に失速したときも同じものを求めてうまくいくとは限らない。意識の上では人間関係が増えるにしたがって物事が回り始めたように覚えているが、実は本を読んでいたりニコニコ動画でくだらない動画をみて笑ったり北朝鮮の音楽を熱唱していたりするのも、他の人生を追体験したり内圧を下げたりするという点で、必要な補給であったり休養であったりしただろう。

 

このごろは『レ・ミゼラブル』と並行して、夏目漱石をずっと読んでいる。昔から、おそらく高校の教科書で『こころ』の下巻を読んでから夏目漱石をなんとなく気に入っていて、以来その感覚を手がかりにして断続的に手を出している。まだすべての作品を読破したわけではないが、いずれそのつもりでいる。

 

ところでこれはささやかな自慢混じりの話だが、あえてひとつ記しておきたい。教科書で読んだ『こころ』に衝撃を受けてから、その全編を読んだ。それで読書感想文を書いたら担当の先生にえらい文章力やとほめてくれた。これはいまでもときどき思い出し、そのたびにほんの少しじわりとあたたかい気持ちになっているところをみると、ぼくのくたびれた心を支える柱の小さな1本として立派に機能してくれている。ぱっと読んで受けた印象で言ってくれたことだっただろうが、数年の歳月を経てなおときどきぼくを慰めてくれる思い出をくれたということに、感謝の念を抱かずにいられない。ただの自慢だったらもっとうぇいうぇいと冗談めかして書くところだが、それよりもぼくは担当の先生がくれた言葉のありがたみを表したくて、真心をもって記した。

 

ここまでつらつらと思いつくままに書いていたが、ひとつここでそれらの点をささっと結んでみたい。ぼくの人生をうまく回してくれるものは何かという問いに対する暫定的な答えとして先ほど呈したのは「人との交流」であった。しかるにたったいま、すさみがちな心をあたためてくれるのは、おそらくちゃんと自分のことを評価して、それをちゃんと伝えてくれることらしい、ということが見え始めた。ちゃんと評価してくれる言葉は、じんわりと確実に心にしみて、機会があればいつも思い出すものだ。そして最近の様子を振り返ると、ぼくのことをいろんな点で、また些細なことでも、正確に評価してくれるという機会が増えたのだろう。人との交流が増えたら自然そうなる。

 

去年はしばしばニケと鳥貴族でのんでいた。あとはたまにゼロや、ほかの学部の友人とのんだりもしていた。そこでも日頃の憂さを晴らし、互いの傷をなめなめしあいながら、互いを能う限り正当に評価しあっていた。しかし、それもせいぜい週1回あるかないかという程度だった。ぼくも彼らもそれなりに忙しく、またそれなりに不安を抱えていた。

 

ぼくの方ではそれに加えて自棄を起こして閉じこもっていた。外界との交渉を極力もたずに、規則のかけらもない生活を送って、インターネットに依存してただぼんやりと苦しい毎日をやり過ごしていた。ところで、この依存というのもややこしくて、第一義には一般的な意味における、すなわちほかにやるべきことをそっちのけで度を超してやりすぎてしまうということだが、加えて第二義として、インターネットをやっていると避けられない不愉快な瞬間――悪意を源泉とする言動、鬱憤晴らしの暴力的な書き込み、はた迷惑で愚昧な独善、誤りとして切り捨てることはできないが個人的に傷をえぐられるような主張――をいやというほど経験してもなおディスプレイにかじりつこうとするということもある。第一義の方はアルコールに依存するようなもので、第二義の方は、いわばアル中夫から離れられぬ妻の心理、すなわち共依存のようなものである。世間一般において第一義の依存と第二義の依存を経験する主体は別と考えられているが、ぼくはそれをひとりで同時に体現したわけだから*1、この点についてはまあ武勇伝と思ってぼくに一目おいていただくだけの価値を有すると自任するところである。

 

無闇に複雑でおもしろくない冗談はさておき、正当に評価するというのがどうやら大切であるということが見えてくる。必ずしも正確でなくてもよい。能う限りでよい。能う限りを追求するというのは誠実であることに努めるということだ。

 

そしてまた出た、出ましたよ「誠実」という単語。やっぱり、ぼくはそのあたりへ帰着するしかないのだろう。あるいはそのあたりを出立点として、誠実であるとは何か、正しい決断とは何か、善く生きるとは何か、そういったことを問うていくしかないのだろう。そんな命題を背負っていくのが、ぼくの縛めというか、使命というか、アイデンティティというか、何というか。

 

その誠実やらなんやらを総じて徳とでも仮称すべき事柄が重大事として持ち上がってくるのは、やっぱりどうしても昔に踏み外した道が、数学をしていても、本を読んでいても、ゼミをやっていても、その間隙をすり抜けて呼びもしないのにあらわれるからなのだろう。戦争反対の声が上がるのは戦争を意識しなければならないだけの理由、戦争の機運がいやしくもあるからにほかならない。満ち足りて幸福に暮らしているところへ人生の意義を捻出する必要はなく、清廉潔白を自負するほどに吹っ切れているところへ道徳の話を蒸し返すいわれはない。

 

*1:ただし、高校時代のあれは共依存ではない! ということで通すつもりができあがっているので、そのあたりよろしく「共依存」を脱いでゆく - The Loving Dead